小田原線を1927年に開業し、現在は江ノ島線と多摩線を加えた3路線を有する小田急。
開業当時の利用者は少なく、苦しい経営を余儀なくされましたが、その後の発展は現在の姿を見れば言うまでもありません。

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沿線が今のように発展しておらず、利用者が少なかった開業当時ですが、どれぐらいの利用状況だったのでしょうか。
開業から間もない頃の乗降人員を確認しつつ、現代との比較もしてみたいと思います。

1928年度の1日平均乗降人員

向ヶ丘遊園駅から先は単線という状態ながら、小田急は新宿から小田原までを一気に開業しました。
現在の姿からは想像できませんが、開業当時の沿線は田畑や山野ばかりで、走る電車も単行や2両編成といった状況でした。

そのような沿線だったため、当然小田急の利用者は少なく、昭和初期を中心に苦しい経営を余儀なくされていますが、その時期を乗り越えて沿線の発展に繋ぎ、今日の小田急が形成されています。
利用者が少なかったというのはよく耳にするものの、実際にはどの程度だったのか、記録が残る1928年度の数字で確認してみましょう。

以下は1928年度の1日平均乗降人員で、記録がある駅のみを記載したものです。

新宿:21,485人
代々木上原:2,168人
下北沢:2,568人
豪徳寺:2,003人
経堂:1,326人
成城学園前:2,419人
登戸:594人
向ヶ丘遊園:988人
鶴川:359人
町田:1,139人
相武台前:229人
本厚木:1,238人
伊勢原:1,112人
東海大学前:306人
秦野:1,438人
新松田:1,595人
小田原:2,343人

全体的に現代とは大きく異なりますが、当時から起点の新宿が突出していたことが分かります。
万単位の乗降人員を誇るのは新宿のみで、経営が苦しかったというのも納得できる数字が並んでいました。

この結果を見ると、新宿から向ヶ丘遊園までをサバー区間、その先をインター区間として区別していたことも納得で、特に路線の真ん中付近が発展していなかったことが分かります。
丘陵地帯がその後開発されたことを踏まえれば、当時の風景はなんとなく想像ができますね。

1日平均乗降人員はどれぐらい増えたのか

利用者が少なかったことは分かりましたが、各駅はその後どれぐらい発展したのでしょうか。
最新の数字である2022年度のデータと比較し、伸び率を確認してみたいと思います。

以下は2022年度の1日平均乗降人員で、1928年度の記録がある駅にのみ絞ったものです。

新宿:410,970人(19.1倍)
代々木上原:237,023人(109.3倍)
下北沢:112,116人(43.7倍)
豪徳寺:24,471人(12.2倍)
経堂:75,323人(56.8倍)
成城学園前:74,920人(31.0倍)
登戸:146,926人(247.4倍)
向ヶ丘遊園:51,916人(52.5倍)
鶴川:57,563人(160.3倍)
町田:246,459人(216.4倍)
相武台前:33,753人(147.4倍)
本厚木:114,922人(92.8倍)
伊勢原:44,098人(39.7倍)
東海大学前:32,462人(106.1倍)
秦野:35,053人(24.4倍)
新松田:19,352人(12.1倍)
小田原:53,079人(22.7倍)

改めて新宿の40万人超えに驚きますが、伸び率の差は興味深いところです。
最も伸びているのは登戸で、南武線の発展も手伝ってか、驚異の247.4倍となっています。

登戸以外にも、町田の216.4倍、鶴川の160.3倍等は目立ち、町田市内の発展が目覚ましかったことが見えてきました。
小田急の混雑は戦後に激化し、複々線の完成まで輸送力の増強に追われることになるのでした。

おわりに

開業当時との比較が意味を成さないほど、大きく発展した小田急の沿線。
ローカル私鉄のようだった開業当時の小田急に、タイムマシンがあったら乗ってみたいものです。