相模大野から片瀬江ノ島までを結び、支線ながら全線に渡って利用者が多い小田急の江ノ島線。
現在は藤沢を境に系統分離されていますが、途中駅でスイッチバックが発生する都市部では珍しい路線です。

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そんな江ノ島線ですが、藤沢から片瀬江ノ島までの区間は、戦時中から戦後にかけて単線化されている時期がありました。
藤沢から先はなぜ単線化され、それによって何が行われたのでしょうか。

資材不足を補うために行われた単線化

終戦から年数が経過し、当時の様子を知る方も少なくなってきましたが、戦況の悪化に伴って資材が枯渇していったのは、多くの方が知識として持っているところでしょう。
資材不足の影響は当然鉄道にも及び、鉄鋼資材を回収して転用するために、政府主導で不要不急路線の休止が行われました。

小田急に近いところでは、1944年2月に大山ケーブルカーや箱根登山ケーブルカーが廃止や休止となり、レール等を撤去しています。
JR東海の御殿場線についても、戦時中に複線から単線へと変更されているため、かつての面影を施設等に見ることができます。

江ノ島線の単線化も戦時中のできごとでしたが、政府主導の流れとは若干異なるものでした。
当時の小田急は大東急の時代ですが、傘下に入っていた神中鉄道(現在の相鉄)の沿線では、陸軍施設が増強されて輸送力が不足するようになってきたことから、線増工事を進める必要に迫られていました。

政府主導ではないとはいえ、当時が資材不足の時代であることは変わらず、江ノ島線の藤沢から片瀬江ノ島までを単線化し、レール等が転用されることとなります。
こうして1943年11月16日より江ノ島線の一部は単線となり、戦後に複線へと復帰するまでその状態が続くこととなりました。

単線化にまつわるエピソード

資材の供出に伴って単線化された江ノ島線の一部ですが、その影響は小田原線内にも及んでいました。
単線化するにあたってはポイントが必要となりますが、それらは小田原線内から取り外したものも使用され、読売ランド前(当時は西生田)、玉川学園前、相模大野の3駅と、江ノ島線内の藤沢本町を加えた各駅から、渡り線が撤去されました。
これらの駅に渡り線があったことに驚かされますが、その後復活した時期があったのかどうかも気になるところです。

単線化にも他のエピソードが残っており、小田原線の新松田から小田原にかけても、単線化の計画があったそうです。
しかし、こちらは陸軍士官学校から待ったがかかり、輸送力を維持することが求められたほか、東海道線が不通となった際には代行線となる必要があるため、単線化は見送られました。

おわりに

戦時中の資材不足に伴い、一部が単線化されることとなった江ノ島線。
戦後に複線へと戻されたのは、終点が観光地だったことが幸いしたのかもしれませんね。