小田急の中で、小田原や箱根を目指す小田原線と対を成す路線といえば、相模大野から分岐して江ノ島を目指す江ノ島線でしょう。
現在は通勤や通学の足、普段使いの路線として定着していますが、昔は海水浴客を運ぶレジャー路線の性格が強い路線でした。

そんな江ノ島線ですが、開業から間もない頃の昭和初期において、海水浴客を大量に輸送するための作戦が組まれました。
小田急の経営が苦しかった昭和の初期において、いったい何が行われていたのでしょうか。
しかし、未開発の沿線が多いという開業直後特有の事情に加え、不況が小田急には直撃し、いきなり苦しい経営を余儀なくされてしまいます。
当然のことながら、経営状況に合わせて経費は削減され、従業員の昇給等もストップといった状況になりました。
そんな中でも、小田急は攻める姿勢も忘れてはおらず、様々な増収策も行われることとなりますが、現代とは異なりできることは限られていたことでしょう。
小田急は今でこそ通勤や通学を主体とした鉄道ですが、当時の強みといえば沿線にある観光資源でした。
それを使わない手はなく、観光地である江ノ島に大量輸送を行う大作戦が決行されることとなります。
現代はレジャーが多様化し、人によって休暇の楽しみ方は様々ですが、昔はある程度限られていました。
そのような時代背景の中で、夏季の海水浴は楽しいイベントであり、当然海岸沿いは大盛況だったのです。
夏季には一定の輸送需要があり、江ノ島線の開業当初から増発等が行われていましたが、1931年には運賃を半額にするという大胆な増収策が行われることとなります。
運賃の半額は、新宿から向ヶ丘遊園までの各駅から片瀬江ノ島に向かう場合、片道が96銭という運賃のところを往復で96銭とするもので、季節割引とはいえあまりにも大胆なものでした。
需要増に合わせて列車も増発され、普段の3倍から4倍程度を運行し、溢れる海水浴客を輸送したそうです。
当時の車両は小さく、繋げられる両数も限られていたことから、輸送需要のアップに対しては列車の本数が何よりも重要だったことになります。
この増収策は人気を博したそうで、作戦は大当たりという結果でした。
夏季の割引は値下げ幅を縮小しつつその後も続けられ、1982年のダイヤ改正までは夏季専用ダイヤが組まれていました。
現代は様々な楽しみが増えましたが、昔は多くの人が一つのことに熱中できた面もあり、そんな活気がある時代を羨ましくも思います。
コロナ禍を経た現代に通じる部分もあり、そんな過去を乗り越えた経験がどこかに活かされたと思えば、近年の動きは似ている部分もあるのかもしれませんね。
現在は通勤や通学の足、普段使いの路線として定着していますが、昔は海水浴客を運ぶレジャー路線の性格が強い路線でした。

そんな江ノ島線ですが、開業から間もない頃の昭和初期において、海水浴客を大量に輸送するための作戦が組まれました。
小田急の経営が苦しかった昭和の初期において、いったい何が行われていたのでしょうか。
夏季に行われた増収策
1927年に小田原線を開業した小田急は、2年後の1929年に江ノ島線を開業しました。しかし、未開発の沿線が多いという開業直後特有の事情に加え、不況が小田急には直撃し、いきなり苦しい経営を余儀なくされてしまいます。
当然のことながら、経営状況に合わせて経費は削減され、従業員の昇給等もストップといった状況になりました。
そんな中でも、小田急は攻める姿勢も忘れてはおらず、様々な増収策も行われることとなりますが、現代とは異なりできることは限られていたことでしょう。
小田急は今でこそ通勤や通学を主体とした鉄道ですが、当時の強みといえば沿線にある観光資源でした。
それを使わない手はなく、観光地である江ノ島に大量輸送を行う大作戦が決行されることとなります。
現代はレジャーが多様化し、人によって休暇の楽しみ方は様々ですが、昔はある程度限られていました。
そのような時代背景の中で、夏季の海水浴は楽しいイベントであり、当然海岸沿いは大盛況だったのです。
海水浴客大輸送作戦の実行
江ノ島線の終点である片瀬江ノ島は、小田急が開業した時点で既に海水浴のイメージが定着していました。夏季には一定の輸送需要があり、江ノ島線の開業当初から増発等が行われていましたが、1931年には運賃を半額にするという大胆な増収策が行われることとなります。
運賃の半額は、新宿から向ヶ丘遊園までの各駅から片瀬江ノ島に向かう場合、片道が96銭という運賃のところを往復で96銭とするもので、季節割引とはいえあまりにも大胆なものでした。
需要増に合わせて列車も増発され、普段の3倍から4倍程度を運行し、溢れる海水浴客を輸送したそうです。
当時の車両は小さく、繋げられる両数も限られていたことから、輸送需要のアップに対しては列車の本数が何よりも重要だったことになります。
この増収策は人気を博したそうで、作戦は大当たりという結果でした。
夏季の割引は値下げ幅を縮小しつつその後も続けられ、1982年のダイヤ改正までは夏季専用ダイヤが組まれていました。
現代は様々な楽しみが増えましたが、昔は多くの人が一つのことに熱中できた面もあり、そんな活気がある時代を羨ましくも思います。
おわりに
苦しい経営状態だった昭和初期に、経費節減をしつつも様々な増収策を行っていた小田急。コロナ禍を経た現代に通じる部分もあり、そんな過去を乗り越えた経験がどこかに活かされたと思えば、近年の動きは似ている部分もあるのかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (9)
急行箱根湯本行きは前4両(中型車)が箱根湯本行きで後6両(大型車)は相模大野止まりとなっており、急行片瀬江ノ島行きは大型車6両でした。
ワタシダ
が
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小田急の元祖「快速急行」は、種別表示にはそれが無いので、「急行」を表示して、案内だけしていたようです。行先幕で種別を補助的に案内していた時期があったので、特別な行先幕と種別幕の「急行」で「快速急行」を示していたということでしょう。
海水浴が「ブーム」だった時代は、国鉄逗子駅電留線にあっちこっちからの臨電が並び、103系の前幕にも「鎌倉/逗子/小田原」などが入れられていたので、夏は各方面とも稼ぎ時だったのでしょうね。
『小田急五十年史』あたりは、どんなことが書いてあるか、見てみようと思います。
ワタシダ
が
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土日??土曜日のみ??その辺は記憶が曖昧ですが、夕方に臨時急行が数本ありました。
当時の急行は、藤沢~片瀬江ノ島駅間は全駅停車でしたので、急行であっても通過表示灯は消灯。ですが、この臨時急行は回送でだった(記憶曖昧)か???、通勤車なのに特急と同じく通過表示灯を点灯させて3号線(4番ホーム)に入線してきました。
大抵HE車だったかな???
通過表示灯の記憶だけは鮮明に......
閑話休題
夏の鵠沼海岸駅での夜間勤務のとき、深夜着の電車から改札ではなくホームの先端から不正で降りる輩がそこそこ....
何故か???そこには交番の警察官。御支援のもと、キセルホイホイ、御用御用って思い出も....
ワタシダ
が
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今のIC子供料金一律50円も、その思想を受け嗣いでいるように思えます。
残念なのは、せっかくのその策が、世間にあまり認知されていないような気がするんですけど…
ワタシダ
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子供なので理解できていませんでしたが、激混みの急行4両に対して、ガラガラの各停6両がなぜ逆にしないのか不思議でした。
ワタシダ
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また江の島方面のアピールの意味でも新宿発片瀬江ノ島行の運行も夏季臨時列車としてアリなのではとも思いますが厳しいかもしれないですね。
ワタシダ
が
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そしたら意味もなく新木場から片瀬江ノ島まで乗って、江ノ島見物でもして久しぶりにタワーでも登ろうかなと思う今日このごろ
ワタシダ
が
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最近では江ノ島での花火大会開催時に藤沢行きの優等列車を延長する形で夏季輸送に対応しとりますが、運転系統分断後も快速急行や急行の片瀬江ノ島行き復活を望む声もちらほらあります。今後は夏季限定で延長運転するという形で復活することはできないのでしょうか?
ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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