代々木上原から登戸までが複々線化され、向ヶ丘遊園までは上りだけが線増された3線となっている小田急。
1989年度から工事が始まりますが、複々線化事業が終わったのは、29年後の2018年度のことでした。

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完成までに長い時間を要した複々線化でしたが、起点側ではなく終点側から工事が始まり、新宿方向に向かっていくという珍しい流れで進められました。
一般的には起点側から進められる線増工事は、なぜ終点側である狛江地区から始まったのでしょうか。

都心に向かって進められた複々線化

戦後の高度経済成長期に沿線人口が増加し、輸送力の限界を迎えつつあった小田急では、早くから複々線化の構想が生まれていました。
しかし、莫大な投資が必要となる複々線化は簡単なものではなく、目の前の輸送力増強に追われる日々の中で、時は流れていくこととなります。

そのような状況下においても、将来を見越した単発の工事は行われ、環状八号線との立体交差化に際しては、後の高架複々線化が想定されていたほか、千代田線との相互直通運転開始に合わせ、代々木上原から東北沢までの1駅間は、小田急初の複々線区間とされました。

本格的な複々線化工事は、1989年に狛江地区の着工によりスタートし、世田谷地区、下北沢地区と進んでいくこととなります。
起点側である東北沢駅から着工し、郊外に向かって工事を進めていくのが一般的ではありますが、小田急の場合は終点側から工事がスタートしたため、複々線の効果が最大化されるのは全面完成を待つ必要がありました。

地元の熱意が早期着工に繋がった狛江地区

新宿に近付くほど混雑が増し、千代田線との乗り入れにあたっても、起点側から工事をしたほうが都合がよいにもかかわらず、なぜ小田急は終点側の狛江地区から工事を始めたのでしょうか。
その背景には、狛江地区が高架複々線化に協力的だったという理由があり、地元の熱意が早期着工に繋がっています。

狛江付近の小田急は、列車本数の増加による開かずの踏切問題に悩まされており、それを解消するための高架化に理解が生まれていました。
一方で、起点側から工事を進めなければ線増の効果は限定的となるため、地元の協力的な姿勢はありがたいものの、小田急にとっては悩ましい事態だったともいえます。

昭和の終わりが近付くと、小田急の社内では複々線化の機運が高まっていきますが、少しでも早く完成させることを重視し、当時の社長である利光達三氏が早期に着工できる終点側からの工事開始を決め、起点側に向かって進められることになりました。
結果的にこの進め方はプラスに作用したともいえ、新宿寄りほど調整に時間を要したことを踏まえれば、起点側のスタートにこだわっていた場合、着工自体が大幅に遅れた可能性が高そうです。

おわりに

2018年のダイヤ改正まで、複々線の部分完成による効果は限定的な面がありましたが、完成後はそれを活かしたダイヤが組まれるようになりました。
複々線の完成後には、大きくパターンを変更するダイヤ改正が行われていませんが、減便により複々線を活かしきれていない面はあることから、今後の動きについても気になるところです。