新宿から小田原までが1927年4月1日に開業し、その後江ノ島線や多摩線が加わった小田急。
人口が少ない場所に線路を敷いたため、開業からしばらくは厳しい経営を余儀なくされ、昭和初期の不況にも苦しめられましたが、そのような時期を乗り越えて今日まで発展を続けてきました。

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大変なスタートとなった開業直後の小田急でしたが、沿線住民からは熱烈な歓迎を受けたといわれます。
待ち望まれた小田急の開業時、沿線の様子はどのようなものだったのでしょうか。

鉄道網が未熟だった神奈川県

東京都と並んで鉄道網が発展している神奈川県ですが、小田急が開業した時期はというと、内陸部を中心にまだまだ未発達の状態でした。
現代においては、都心部から放射状に多くの路線が延びていますが、当時はそのような状態ではなく、小田急は鉄道の空白地帯に線路を敷いたことになります。

当時からある路線としては、御殿場線を経由していた東海道線があげられますが、神奈川県を東西に貫く路線は今のように多くありませんでした。
横浜線や南武線、相鉄等は存在していましたが、いずれも都心部に繋がる路線ではなく、他には短い路線が点在する程度であり、現代とは全く違う様相だったのです。

当然のことながら、小田急と似たような路線は過去にも計画されますが、いずれも実現することはありませんでした。
そのような背景を踏まえれば、小田急が新宿から小田原までを一気に開業したことには大きな意味があり、都心部と直結する路線を神奈川県の内陸部に通すことで、新たな人の動きを生み出せたといえそうです。

沿線住民から歓迎された小田急

計画されながらも頓挫した路線があるとはいえ、小田急の開業はなぜそんなにも歓迎されたのでしょうか。
それは当時の路線網を踏まえた住民の気持ちになると、見えてくる面があります。

現在の小田急を見れば分かるとおり、湘南新宿ラインといったライバル自体は存在するものの、関西の鉄道のような分かりやすい競合路線ではありません。
言い方を変えると、小田急が開業する前は、神奈川の県央から都心部に直接出る鉄道はなく、東海道線等の駅まで出る必要がありました。
自動車が発達しているような時代でもないため、都心部は気軽に行ける場所ではなかったことになります。

小田急が開業すると、1時間から2時間程度で都心部に出られるようになり、移動時間は大幅に短縮されることとなりました。
それまでは半日がかりでの移動だったそうですから、日帰りが可能な所要時間になることは、大きな変化だったといえます。
沿線では花火や大凧による歓迎を受け、華々しく小田急の歴史はスタートしましたが、利用者が増えるまではしばらく時間を要することとなります。

おわりに

苦しい時代を乗り越え、沿線が発展した今日の状態へと至った小田急。
開業を心待ちにしていた沿線住民の存在が、初期の苦しい状況を支えることにも繋がったのかもしれませんね。