新松田駅付近でJR東海の御殿場線と線路が繋がり、ふじさん号の乗り入れや車両の搬出入が行われている小田急。
現在は連絡線と呼ばれるものがこの場所だけになりましたが、昔は小田急線内の各所に設けられていました。
時の流れの中でほとんどが失われてしまった小田急の連絡線について、どのようなものがあったのかを今回はまとめてみたいと思います。
それらの多くは戦後に失われてしまいましたが、直通運転の関係で御殿場線との連絡線が残り、現在も車両の搬出入等に使われています。
小田急の起点といえば新宿駅ですが、昔はこの場所も国鉄と線路が繋がっていました。
戦時中に中央・総武緩行線の下り線との間に渡り線が設けられ、小田急の下り線と繋がっていたもので、車両の行き来等に利用されていたものです。
貨物の行き来等もありましたが、小田急の新宿駅を改良する工事が始まった頃に廃止され、連絡線も撤去されてしまいました。
続いての連絡線は向ヶ丘遊園付近にあり、下り線が南武線と繋がっていました。
南武鉄道時代の1936年に設置されたもので、砂利の輸送や車両の借り入れ等に使われていましたが、1967年に廃止となっています。
砂利の輸送用としては、厚木駅付近にも相模線との連絡線がありました。
相模鉄道の時代からあった連絡線は、小田急の下り線と繋がっていましたが、1966年10月に廃止されています。
小田急の終点である小田原にも連絡線が存在し、こちらは国鉄がJR東日本になってからもしばらく残っていました。
貨物の行き来や、車両の搬出入に使われていましたが、全線10両化に合わせて1990年代に廃止されています。
元々は南武線や相模線も私鉄でしたが、これから紹介する場所については、廃止段階でも私鉄だったものになります。
まずは世田谷代田駅付近にあった連絡線で、こちらは京王の井の頭線と繋がっていました。
1944年の空襲で井の頭線の車庫が被災し、ほとんどの車両が焼けてしまったため、小田原線から車両を送り込むために急遽造られたものですが、大東急時代のことなので同じ会社内での連絡線だったことになります。
戦時の強制収用で用地を確保していたこともあり、1953年9月をもって廃止されました。
もう一つの連絡線は海老名駅にあり、相鉄と小田急の線路が繋がっており、1964年11月までは本厚木まで相鉄の車両が乗り入れていました。
ホームの場所が移動しており、当時の面影も残っていないため、乗り入れが行われていたのはイメージしにくくなっています。
現在は乗り入れを行う場所でしか他社線と線路が繋がっておらず、整理された状態となってしまいました。
現在は連絡線と呼ばれるものがこの場所だけになりましたが、昔は小田急線内の各所に設けられていました。
時の流れの中でほとんどが失われてしまった小田急の連絡線について、どのようなものがあったのかを今回はまとめてみたいと思います。
国鉄と線路が繋がっていた場所
軌間を1067mmとし、直流1500Vで電化されていた小田急は、国鉄と線路が繋がる場所が多く存在しました。それらの多くは戦後に失われてしまいましたが、直通運転の関係で御殿場線との連絡線が残り、現在も車両の搬出入等に使われています。
小田急の起点といえば新宿駅ですが、昔はこの場所も国鉄と線路が繋がっていました。
戦時中に中央・総武緩行線の下り線との間に渡り線が設けられ、小田急の下り線と繋がっていたもので、車両の行き来等に利用されていたものです。
貨物の行き来等もありましたが、小田急の新宿駅を改良する工事が始まった頃に廃止され、連絡線も撤去されてしまいました。
続いての連絡線は向ヶ丘遊園付近にあり、下り線が南武線と繋がっていました。
南武鉄道時代の1936年に設置されたもので、砂利の輸送や車両の借り入れ等に使われていましたが、1967年に廃止となっています。
砂利の輸送用としては、厚木駅付近にも相模線との連絡線がありました。
相模鉄道の時代からあった連絡線は、小田急の下り線と繋がっていましたが、1966年10月に廃止されています。
小田急の終点である小田原にも連絡線が存在し、こちらは国鉄がJR東日本になってからもしばらく残っていました。
貨物の行き来や、車両の搬出入に使われていましたが、全線10両化に合わせて1990年代に廃止されています。
私鉄と線路が繋がっていた場所
国鉄ほど多くはありませんでしたが、私鉄とも線路が繋がっている場所がありました。元々は南武線や相模線も私鉄でしたが、これから紹介する場所については、廃止段階でも私鉄だったものになります。
まずは世田谷代田駅付近にあった連絡線で、こちらは京王の井の頭線と繋がっていました。
1944年の空襲で井の頭線の車庫が被災し、ほとんどの車両が焼けてしまったため、小田原線から車両を送り込むために急遽造られたものですが、大東急時代のことなので同じ会社内での連絡線だったことになります。
戦時の強制収用で用地を確保していたこともあり、1953年9月をもって廃止されました。
もう一つの連絡線は海老名駅にあり、相鉄と小田急の線路が繋がっており、1964年11月までは本厚木まで相鉄の車両が乗り入れていました。
ホームの場所が移動しており、当時の面影も残っていないため、乗り入れが行われていたのはイメージしにくくなっています。
おわりに
かつては多くの場所で線路が繋がりつつも、時の流れの中でほとんどが廃止された小田急。現在は乗り入れを行う場所でしか他社線と線路が繋がっておらず、整理された状態となってしまいました。
コメント
コメント一覧 (26)
記憶していますが?・
ワタシダ
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下北沢の代田連絡線が撤去されたことにより、井の頭線はどの他の路線とも繋がっていない「ガラパゴス路線」となってしまいましたよね…。
車両の搬入は永福町駅のバスターミナルから行っているそうですが、陸上輸送だとコストもかかってしまうので、今からでも他の路線とつながり、できれば直通運転も実現させていただきたいですよね。
ワタシダ
がしました
軌間も規格も全く異なる玉電は別として
小田急の本線が交差していて
連絡線が無かったのは 横浜線 だけ?
そして江の島線は
相鉄 とも 国鉄 とも当初から現在まで
連絡線は無しか…
戦時中に急造した新宿や代田の連絡線は
あまりに無理矢理すぎて脱線が頻発したともいうし
必要が無くなれば真っ先に撤去されたのでしょうね…
ワタシダ
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また足柄駅で専売公社の専用線と接続していたのは連絡線とは言わないのでしょうか?
ワタシダ
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移動変電所なるイヘ901と911が、仕事をしていたのか休んでいたのか。
イヘ911は、グレーのボディにオレンジバーミリオンとホワイトの帯を巻いた姿に、初めて見たときはロマンスーの親戚と思ったりして…そういえば、EXEαを初めて見た時、イヘ911が脳裏に浮かびました。
ワタシダ
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ワタシダ
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ここで気になるのは、借り受け車にせよ譲受車にせよ、省から小田原急行へはどうやって入れたのか、です。参宮橋駅には隣接して代々木練兵場があったので、もし練兵場に引き込み線があれば、そこから仮線をつないでというようなことは考えられますが、今のところ参宮橋駅に側線があった記録は見つかっていません。ただ、大分県から上京した社員候補生の輸送を、どうして参宮橋駅からにしたのかも、何か理由があったはずでよくわかりません。
一時小田急電鉄に合併されていた帝都電鉄(のちの井の頭線)ですが、建設時は省線吉祥寺駅から社線井の頭公園駅に仮線が建設されており、一応私鉄同士でつながっていたと言えそうです。しかも常駐機関車がいて、小田原急行の703号だったそうです。無蓋貨車も貸し出していたそうですが、当時は小田原しか線路が他線とつながっておらず、例えば貨車もSLも、小田原-新宿-吉祥寺と省線を回送したものとしか考えられません。
ワタシダ
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アクセス改善を要望しているけれど、実現する気配は見えないな。
ワタシダ
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連絡船→連絡線
ワタシダ
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余談ですが昔は東横線菊名駅付近と国鉄横浜線菊名駅に連絡船もありましたが、田園都市線開通により長津田から新車搬入されることになり廃止されました。
ワタシダ
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東武などは貨物輸送が盛んだったし、国鉄・JRの駅と並列に設置している駅が多いから、連絡線もたくさん残っていそうな気がするな。
ワタシダ
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ワタシダ
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旅客運用中心の中に貨物スジを通したり、その為の設備や機関車を残すし保守するのは大変だと思います
また連絡線も限られた箇所に限定する事で保線や安全の管理も現場としてはやりやすいのかもしれません
ワタシダ
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