小田急から西武に車両が輸送され、8000形が装いを新たに国分寺線を走る日が近付きつつあります。
8000形は1982年に登場し、約40年が経過している車両ですが、大規模なリニューアルを行ったことがプラスに作用し、今回のサプライズへと繋がりました。

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40年前は1980年代が始まったばかりの頃ですが、その時代の小田急と西武にはどのような特徴があったのでしょうか。
現代よりも私鉄各社に特色があった時代を振り返ってみたいと思います。

車両面での小田急と西武の特徴

現在は20m級の4扉車が標準となっている両社ですが、40年前の段階では大きな違いがありました。
一部の101系が西武では今も現役ですが、8000形が登場する頃はまだ3扉車が主流であり、4扉車は新宿線を走る2000系が少し見られる程度でした。

小田急に8000形が登場した頃、西武は3000系という新たな3扉車の形式を起こしています。
101系の車体に2000系の足回りを組み合わせたような構成になっており、西武における車両の過渡期を象徴するような形式です。

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このような違いが生まれた背景には、両社の輸送力増強における方針の違いがあったように思います。
小田急は編成長をなかなか増やせない状況において、車両の幅を広げたり扉数を増やして対応したのに対して、西武は1963年から池袋線で私鉄初の10両運転をスタートしており、3扉ながら20m級の車体を標準仕様にするのも早い等、長い編成の車両を走らせることで輸送力アップを図りました。

少々乱暴な表現をすれば、小田急は量に頼れず車両の中身で対応し、西武は車両の量で輸送力増強を先行した面が大きいといえます。
最終的にはどちらも20m級車体の4扉に着地し、近年は西武にも拡幅車体が登場していますが、そこに至るまでのプロセスが異なるだけで、ゴールは同じだったのでしょう。

車両の造り方における特徴

標準化が進み、会社による車両の特徴が減ってしまった現代ですが、40年前の小田急と西武には大きな違いがありました。
当時の西武における最大の特徴は、所沢にある自社の工場で車両を製造していたことで、長く続いた珍しい伝統でした。

戦後の西武は、戦争で被災した国鉄の車両を購入し、それを復旧して活用した時期があり、その後自社で車両を造るようになっていきます。
車両メーカーでの製造もありましたが、40年前の時点でも西武は自社で車両を造っており、外注が前提の小田急とは大きな違いがあったといえます。
西武に関する書籍等では、自社での車両製造に関して触れられていることが多く、製造過程の101系等の写真を見つつ、内製することに驚いたものです。

車両メーカーでの製造だった小田急については、複数の会社で分担するという特徴があります。
事業譲渡等によって会社名は変わっていますが、川崎車両、総合車両製作所、日本車輌製造の3社が製造を担当し、現代でもその状況に大きな変化はありません。
外注が基本となった西武が、どちらかといえば車両メーカーを絞ったのとは対照的で、あまり変化しない小田急と、大きく変化した西武というところでしょうか。

おわりに

標準化の流れの中で、昔よりも鉄道車両の会社による違いは少なくなりました。
8000形が登場した当時は全く違う状況で、それぞれの会社による事情が色濃く残り、それが私鉄特有の面白さを生み出していたのかもしれませんね。