1972年に営業運転を開始した小田急9000形。
小田急9000形全編成ガイドでは、各編成ごとの特徴やデータをまとめています。
元々は4両と6両が10本ずつ造られる予定だった9000形ですが、6両を8本目まで増備したところで中断し、最終的には4両の9010Fに中間車を追加することで、4両と6両を9本ずつの陣容とされました。
車両の仕様は基本的に3次車と同一で、9406Fに固有の特徴はありません。
営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線への乗り入れ用として登場しましたが、相互直通運転の開始までは小田急線内用の車両として使われました。
乗り入れの開始前には千代田線に入線するための改造が行われ、1978年度には乗務員室内に貫通路を構成するための仕切を設置、合わせてデハ9406の手すりが交換されました。
1000形の登場後に地下鉄乗り入れ運用からは外れ、その後は小田急線内を中心に活躍し、5000形等と同様に使われます。
1994年度には車体修理が行われ、内装は1000形に準じた暖色系となり、イメージが一新されました。
9000形の中では2本目の廃車となり、2005年に引退しています。
※左側が新宿方
デハ9506:4次車
サハ9556:4次車
サハ9656:4次車
デハ9606:4次車
デハ9706:4次車
デハ9506:日本車輌製造
サハ9556:日本車輌製造
サハ9656:日本車輌製造
デハ9606:日本車輌製造
デハ9706:日本車輌製造
デハ9506:1974年11月5日
サハ9556:1974年11月5日
サハ9656:1974年11月5日
デハ9606:1974年11月5日
デハ9706:1974年11月5日
デハ9506:調査中
サハ9556:調査中
サハ9656:調査中
デハ9606:調査中
デハ9706:調査中
デハ9506:2005年4月30日
サハ9556:2005年4月30日
サハ9656:2005年4月30日
デハ9606:2005年4月30日
デハ9706:2005年4月30日
小田急9000形全編成ガイドでは、各編成ごとの特徴やデータをまとめています。
9406Fの概要
9000形の4次車として1974年に登場した編成で、中間に付随車を挟んだ6両編成となっています。元々は4両と6両が10本ずつ造られる予定だった9000形ですが、6両を8本目まで増備したところで中断し、最終的には4両の9010Fに中間車を追加することで、4両と6両を9本ずつの陣容とされました。
車両の仕様は基本的に3次車と同一で、9406Fに固有の特徴はありません。
営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線への乗り入れ用として登場しましたが、相互直通運転の開始までは小田急線内用の車両として使われました。
乗り入れの開始前には千代田線に入線するための改造が行われ、1978年度には乗務員室内に貫通路を構成するための仕切を設置、合わせてデハ9406の手すりが交換されました。
1000形の登場後に地下鉄乗り入れ運用からは外れ、その後は小田急線内を中心に活躍し、5000形等と同様に使われます。
1994年度には車体修理が行われ、内装は1000形に準じた暖色系となり、イメージが一新されました。
9000形の中では2本目の廃車となり、2005年に引退しています。
編成表
デハ9406-デハ9506-サハ9556-サハ9656-デハ9606-デハ9706※左側が新宿方
製造区分
デハ9406:4次車デハ9506:4次車
サハ9556:4次車
サハ9656:4次車
デハ9606:4次車
デハ9706:4次車
製造所
デハ9406:日本車輌製造デハ9506:日本車輌製造
サハ9556:日本車輌製造
サハ9656:日本車輌製造
デハ9606:日本車輌製造
デハ9706:日本車輌製造
竣功日
デハ9406:1974年11月5日デハ9506:1974年11月5日
サハ9556:1974年11月5日
サハ9656:1974年11月5日
デハ9606:1974年11月5日
デハ9706:1974年11月5日
車体修理竣功日
デハ9406:調査中デハ9506:調査中
サハ9556:調査中
サハ9656:調査中
デハ9606:調査中
デハ9706:調査中
廃車日
デハ9406:2005年4月30日デハ9506:2005年4月30日
サハ9556:2005年4月30日
サハ9656:2005年4月30日
デハ9606:2005年4月30日
デハ9706:2005年4月30日
コメント
コメント一覧 (6)
ワタシダ
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本記事9406Fはそんな9000形6両編成のうちの1編成ですが、他の9000形6両編成と同様、少し古めかしい外観と当時最新型だった1000形のような内装のミスマッチが面白い車両でした。
ワタシダ
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当時としては斬新なデザイン、新製時から冷房付き、地下鉄直通を主目的とすることなど、共通項も多かったですね。
当時小学校低学年だつた私は、遠くない将来に京王6000と競走しながら橋本や城山をめざして多摩ニュータウンを颯爽と駆け抜ける9000の姿を想像して心を踊らせたものです。
しかし、ほぼその通りの活躍をした京王6000とは対照的に、9000は多摩線にはほとんど入らず、千代田線直通も極端に本数が少ない時期が続きました。
多摩急行の設定で漸く直通の本数が増えてきた時には既に直通車の座を降りており、9を形式名に名乗りながら、遂に9号線の主役になれないまま引退してしまいました。
時代に翻弄され、本来の任務を果たせなかったという面からすれば、悲運の形式だったと言えるように思います。
ワタシダ
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私は、1976年4月頃、小学校の遠足の行きに、成城学園前駅から向ヶ丘遊園駅まで、9706に乗車しました。その後、帰りに、目的地の生田緑地から向ヶ丘遊園駅まで歩いている途中で、引き上げ線に停車している9000形の別の編成を見て、複数の同級生が、口々に、行きに乗った電車だと言い出しました。私は、社番が違うことに気付いていたので、違うと言いましたが、同級生たちは信じてくれませんでした。なお、実際に帰りに乗車したのは、この9000形の編成ではなく、4000形でした。
後日、国語の授業で遠足の作文を書いた時に、私は、乗車した電車の社番を書いていて、縦書きの原稿用紙に漢数字で九千七百六と書いたことを思い出しました。
ワタシダ
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ワタシダ
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