最終的には全ての編成が2両となり、先頭車ばかりの形式群となった小田急の2200系列。
2200形、2220形、2300形、2320形の4形式で構成され、ABFM系列等とも呼ばれました。
1982年から大型車への置き換えで廃車が始まり、1984年に全車が引退しましたが、意外にも晩年に活躍の範囲が広がった面もあり、箱根登山線への乗り入れが見られることとなります。
編成数の関係で、2211Fと2213Fのみは4両編成を組みましたが、活躍するシーンは限定的となり、多摩線を中心に使われることとなります。
主に4両で使われた2211Fは、先日お伝えしたとおり解体の危機に瀕しています。
解体から救い出し、保存するためのクラウドファンディングが、2024年7月12日の18時よりスタートする予定ですので、ご興味がある方は是非ご支援をお願いできますと幸いです。
話を戻しますが、この時期の箱根登山線には大型車の乗り入れができず、入線可能なのは2200系列と2400形だけとなっていました。
しかし、前述のとおり2200系列は6両を組んでいたため、箱根登山線への直通急行は2400形の独壇場で、前の4両は箱根湯本行きのHE車というのが定番となります。
そんな状況に変化が生まれたのは1982年のダイヤ改正で、箱根登山線に大型車の6両が乗り入れられるようになり、小田原線の急行は一気に冷房車の割合が高まりました。
当時の大型車で乗り入れが可能だったのは、5000形と9000形の2形式で、後に8000形も加わりましたが、それに混ざって2200系列も僅かながら入線する機会が生まれます。
乗り入れに充当されたのは、2200系列だけで組んだ編成か、2220形か2320形を2400形と繋いだ編成で、大型車に混ざって6両での乗り入れを行うこととなります。
幸いだったのは、2200系列としての運用に存在していたため、基本的には毎日見ることができた点でしょうか。
実際にはどのような運用だったのか、手元にある1983年以降のダイヤで確認してみたいと思います。
2200系列の6両に対しては、C1からC6までの6運用が設定されていました。
その中で、箱根登山線への乗り入れがあったのはC4とC6となっており、それぞれに新宿から箱根湯本への2往復が設定されています。
箱根登山線への入線は、どちらの運用もお昼頃と15時前後となっており、比較的まとまったタイミングでの走行となっていました。
冷房車ばかりの箱根湯本行きになったはずが、非冷房車が充当されていることになるわけですから、鉄道に興味がない人にとってはハズレの列車だったことでしょう。
写真提供:まにまに会長様
2200系列の箱根登山線への乗り入れには、ちょっとしたおまけのイベントもありました。
まとまったタイミングでの充当だったことから、箱根登山線内の箱根板橋駅で交換を見ることが可能で、この時期ならではの貴重な光景となっていたようです。
まにまに会長様が撮影した写真では、箱根湯本行きが2400形となっていますが、後方を見ると2220形が繋がっています。
2200系列の並びにはなっていませんが、2400形が新宿側に繋がっていたのは、この写真の2551Fのみだったため、これはこれでとても貴重な光景といえそうです。
ダイヤを眺めてみると、箱根板橋駅で交換が見られたのは11時38分頃と15時38分頃のようで、過渡期ならではの光景が連日展開されていたことになります。
編成内の通り抜けができなかったことから、風祭駅でのドアカットに関係する案内は大変だったと思いますが、箱根湯本側に2400形を配置するようにしていたのは、通り抜けを少しでもしやすくするためだったのかもしれませんね。
2200形、2220形、2300形、2320形の4形式で構成され、ABFM系列等とも呼ばれました。
1982年から大型車への置き換えで廃車が始まり、1984年に全車が引退しましたが、意外にも晩年に活躍の範囲が広がった面もあり、箱根登山線への乗り入れが見られることとなります。
2200系列の箱根登山線への乗り入れ
全編成が2両に統一された2200系列でしたが、晩年は3編成を繋いだ6両が基本となり、運用上も実質的には6両編成として扱われました。編成数の関係で、2211Fと2213Fのみは4両編成を組みましたが、活躍するシーンは限定的となり、多摩線を中心に使われることとなります。
主に4両で使われた2211Fは、先日お伝えしたとおり解体の危機に瀕しています。
解体から救い出し、保存するためのクラウドファンディングが、2024年7月12日の18時よりスタートする予定ですので、ご興味がある方は是非ご支援をお願いできますと幸いです。
話を戻しますが、この時期の箱根登山線には大型車の乗り入れができず、入線可能なのは2200系列と2400形だけとなっていました。
しかし、前述のとおり2200系列は6両を組んでいたため、箱根登山線への直通急行は2400形の独壇場で、前の4両は箱根湯本行きのHE車というのが定番となります。
そんな状況に変化が生まれたのは1982年のダイヤ改正で、箱根登山線に大型車の6両が乗り入れられるようになり、小田原線の急行は一気に冷房車の割合が高まりました。
当時の大型車で乗り入れが可能だったのは、5000形と9000形の2形式で、後に8000形も加わりましたが、それに混ざって2200系列も僅かながら入線する機会が生まれます。
乗り入れに充当されたのは、2200系列だけで組んだ編成か、2220形か2320形を2400形と繋いだ編成で、大型車に混ざって6両での乗り入れを行うこととなります。
箱根板橋駅で見られた2200系列の並び
箱根登山線内の大型車化に伴い、2200系列の乗り入れが見られるようになりましたが、これは平日のみのことでした。幸いだったのは、2200系列としての運用に存在していたため、基本的には毎日見ることができた点でしょうか。
実際にはどのような運用だったのか、手元にある1983年以降のダイヤで確認してみたいと思います。
2200系列の6両に対しては、C1からC6までの6運用が設定されていました。
その中で、箱根登山線への乗り入れがあったのはC4とC6となっており、それぞれに新宿から箱根湯本への2往復が設定されています。
箱根登山線への入線は、どちらの運用もお昼頃と15時前後となっており、比較的まとまったタイミングでの走行となっていました。
冷房車ばかりの箱根湯本行きになったはずが、非冷房車が充当されていることになるわけですから、鉄道に興味がない人にとってはハズレの列車だったことでしょう。
写真提供:まにまに会長様
2200系列の箱根登山線への乗り入れには、ちょっとしたおまけのイベントもありました。
まとまったタイミングでの充当だったことから、箱根登山線内の箱根板橋駅で交換を見ることが可能で、この時期ならではの貴重な光景となっていたようです。
まにまに会長様が撮影した写真では、箱根湯本行きが2400形となっていますが、後方を見ると2220形が繋がっています。
2200系列の並びにはなっていませんが、2400形が新宿側に繋がっていたのは、この写真の2551Fのみだったため、これはこれでとても貴重な光景といえそうです。
ダイヤを眺めてみると、箱根板橋駅で交換が見られたのは11時38分頃と15時38分頃のようで、過渡期ならではの光景が連日展開されていたことになります。
おわりに
8000形への置き換えにより、2200系列は急速に数を減らしていきました。編成内の通り抜けができなかったことから、風祭駅でのドアカットに関係する案内は大変だったと思いますが、箱根湯本側に2400形を配置するようにしていたのは、通り抜けを少しでもしやすくするためだったのかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (16)
ワタシダ
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ワタシダ
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また昭和57年頃だと、朝7時前に大野からブツ×5の10両列車がありました。但しこちらは相方の4両がHEかFMの共通運用だったので月に数日のレアな組み合わせでした。
ワタシダ
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と、いう事は……… その後の保存状態が良くない事になりそうですね
ワタシダ
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2400単独にしても江ノ島線の各停運用の印象が強いのですが、ABFM系混結の6両でも湯本急行の運用にも入っていたのですね。
ワタシダ
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さて、箱根登山線への乗り入れですが1982年7月に大型車の乗り入れが解禁されたことを考えるとそれより前は頻繁に乗り入れとったのではないでしょうか(ただ、大型車でも2600形や旧4000形など乗り入れ不可の車両もありましたのでこの頃は乗り入れ可能な車両も限られとったとも言えますね)?2400形も引退直前は小田原線の末端部や多摩線などで運用されとったそうですし、晩年の中型車は箱根登山線に乗り入れない運用に使用されたイメージが強かったと思います。それでも収容力の問題に加え、非冷房で夏場は乗客から不評やったことを考えると早期廃車された理由も納得できますね(京王旧5000系列も同様の理由で早期廃車を余儀なくされましたが、こちらは一部が冷房付きでした。加えて経年が浅かったこともあり、多くが地方私鉄に譲渡され現在も活躍を続けとる車両もあります)。
ワタシダ
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