昔は待避線を備えた駅だったものの、ホームを延長する過程で通常の相対式へと変更された柿生駅。
小田急には待避線を撤去した駅がいくつかありますが、長い年月の中でその痕跡は消えつつあり、柿生駅も同様の状態となっています。

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そんな柿生駅ですが、かつては列車の終点として機能したこともあり、柿生行きを見ることができた時代もあります。
向ヶ丘遊園や相模大野ではなく、中途半端な行先である柿生行きはなぜ設定されたのでしょうか。

かつて存在した柿生行きの列車

新百合ヶ丘駅と鶴川駅に挟まれ、現在はあまり目立たない柿生駅ですが、かつては待避線や貨物用の側線を備えた駅でした。
8両分までは待避線を備えた状態でホームが延長されましたが、駅の前後にある踏切の関係で10両への対応が難しく、待避する駅としての役割は新百合ヶ丘駅と鶴川駅に移されています。

まだ待避線があった時期、高性能車の2200形すら登場していない頃、1953年4月に柿生行きの下り列車が設定されました。
新宿から向ヶ丘遊園までをサバー区間、そこから先をインター区間と称し、輸送力にも大きな差があった時代のことです。

当時は多摩川を渡ると農村ばかりで、新百合ヶ丘駅はもちろんのこと、百合ヶ丘駅すらありませんでした。
読売ランド前を出ると柿生まで駅はなく、丘陵地帯を線路は右へ左へとカーブしながら敷かれていました。

待避線を備えていた当時の柿生駅は、下りホームから上り方面への折り返しが可能な配線で、柿生行きはこれを活用して設定された列車です。
柿生まで来た列車の折り返しは回送で、車庫のある経堂まで戻されていました。

柿生行きの設定目的

向ヶ丘遊園でもなく、町田や相模大野でもない、柿生というやや中途半端に感じる駅までの列車が設定されたのはなぜなのでしょうか。
この列車は乗務員等から女子大電車と呼ばれたそうで、通学時間帯の助っ人として設定されました。

設定された理由は、1948年に日本女子大学附属高等学校が開校したことで、最寄駅である読売ランド前駅への輸送力アップを目的としています。
当時もラッシュはあったのでしょうが、下り列車は今のように多くなかったものと思われ、通学の便を図っての設定だったそうです。

読売ランド前駅で生徒を降ろしてしまえば、それで列車の役目は終わってしまいますが、折り返し設備の都合で柿生まで運行されていました。
大半の乗客が読売ランド前駅で降りてしまうとなれば、わざわざ町田や相模大野まで走らせる理由もないため、柿生行きという不思議な列車が誕生することになったのです。
特急から格下げされた2000形(後に1900形へと編入)が充当されることもあったため、その場合はセミクロスシートの車両が走っていたことになり、なんとも豪華な通学列車となっていました。

おわりに

いつの時代にも珍しい行先の列車は存在しますが、小田急の歴史上において柿生行きはかなり希少な存在でした。
折り返しができない駅となった現代において、柿生行きが設定されることはもう二度とないのでしょうね。