1927年4月1日に小田原線が開業し、その後江ノ島線、多摩線と路線網を拡大した小田急。
開業当時は単行の車両が走るような路線でしたが、10両の列車が行き交う状態にまで発展しました。
そんな小田急では、開業時に1形(その後の1100形)等の新造車両を導入します。
当時としては洗練された車両であり、それに由来するエピソードが残っているようです。
いずれも両運転台の車両であり、短距離用の1形が18両、長距離用の101形(後の1200形)が12両という内訳で、その後江ノ島線の開業までに他の車両が増備されていきます。
開業して間もない頃に増備されたこれらの車両は、まだ木造車両が多く走る世の中において近代的な部類で、かなり奮発した車両を用意したことになります。
車体は金属を多用した普通鋼製となっており、内装材等に木材を使用した半鋼製車に分類されますが、その造作も落ち着いた雰囲気であり、豪華に見えたそうです。
ロマンスカーミュージアムには1形が保存されており、復元されたものながら当時の車内を見ることができます。
通常は車内に入ることはできず、この写真も開いているドアから撮影したものですが、中の様子がよく分かるかと思います。
木材を多用しているからこそなのかもしれませんが、現代の車内に比べて趣があり、このような車両に乗って移動できたらよい思い出になりそうです。
こんな車両を最初から用意してしまうあたりが、開業時におけるスケールの大きさを表していますが、結果的にはこういった過大投資にしばらくは苦しむことにも繋がりました。
かつて発行されていた広報誌の「おだきゅう」には、車両に関するエピソードが書かれています。
当時の鉄道では、省線(後の国鉄)にも木造車両が走り、鋼製車への切り替えを進めているといった状況の中、小田急は新宿から小田原までを鋼製車だけで運行することとなりました。
車内の雰囲気は前述のとおりですが、落ち着いた雰囲気に加えて造作がよかったため、下駄を脱いで乗る人もいたと伝えられているそうです。
新車を輸送する際のエピソードについても書かれており、小田原駅で省線から小田急に引き渡す際、省線の係員が二等車じゃないのかと叫んだそうで、それだけ豪華に見える造りだったようです。
二等車といえば現在のグリーン車にあたり、開業したばかりの沿線が発展していない地域を走る車両としては、あまりにも豪華だったということなのでしょう。
その車両が空いていたということになりますから、見方を変えれば当時の利用者にとってはお得な状態だったのかもしれませんね。
開業当時は単行の車両が走るような路線でしたが、10両の列車が行き交う状態にまで発展しました。
そんな小田急では、開業時に1形(その後の1100形)等の新造車両を導入します。
当時としては洗練された車両であり、それに由来するエピソードが残っているようです。
鋼製車を新造した開業時の小田急
新宿から小田原までを一気に開業した小田急は、最初に30両の車両を用意しました。いずれも両運転台の車両であり、短距離用の1形が18両、長距離用の101形(後の1200形)が12両という内訳で、その後江ノ島線の開業までに他の車両が増備されていきます。
開業して間もない頃に増備されたこれらの車両は、まだ木造車両が多く走る世の中において近代的な部類で、かなり奮発した車両を用意したことになります。
車体は金属を多用した普通鋼製となっており、内装材等に木材を使用した半鋼製車に分類されますが、その造作も落ち着いた雰囲気であり、豪華に見えたそうです。
ロマンスカーミュージアムには1形が保存されており、復元されたものながら当時の車内を見ることができます。
通常は車内に入ることはできず、この写真も開いているドアから撮影したものですが、中の様子がよく分かるかと思います。
木材を多用しているからこそなのかもしれませんが、現代の車内に比べて趣があり、このような車両に乗って移動できたらよい思い出になりそうです。
こんな車両を最初から用意してしまうあたりが、開業時におけるスケールの大きさを表していますが、結果的にはこういった過大投資にしばらくは苦しむことにも繋がりました。
豪華に見えたことで生まれたエピソード
奮発した車両を用意した小田急でしたが、当時の乗客等にはどう映っていたのでしょうか。かつて発行されていた広報誌の「おだきゅう」には、車両に関するエピソードが書かれています。
当時の鉄道では、省線(後の国鉄)にも木造車両が走り、鋼製車への切り替えを進めているといった状況の中、小田急は新宿から小田原までを鋼製車だけで運行することとなりました。
車内の雰囲気は前述のとおりですが、落ち着いた雰囲気に加えて造作がよかったため、下駄を脱いで乗る人もいたと伝えられているそうです。
新車を輸送する際のエピソードについても書かれており、小田原駅で省線から小田急に引き渡す際、省線の係員が二等車じゃないのかと叫んだそうで、それだけ豪華に見える造りだったようです。
二等車といえば現在のグリーン車にあたり、開業したばかりの沿線が発展していない地域を走る車両としては、あまりにも豪華だったということなのでしょう。
おわりに
開業時からしっかりした車両を用意し、その豪華さが目立っていた小田急。その車両が空いていたということになりますから、見方を変えれば当時の利用者にとってはお得な状態だったのかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (4)
ならないです。SEだってNSEだってそうだろうし
LSEのLってラグジュアリーのLらしいじゃないですか。HiSEとか今までのロマより座席の質が良かったように思います。EXEは初めて乗ったときは外観はつまんないが内装の高級感や座席は重厚で居心地が良かった記憶があります。
2400とか9000や3000の1次車だってその時勢の
車両としては無駄に高性能だし。
どうせ作るならいい物って意識が強くなって、でもそんなに良いの作ってもわかってもらえないし
現状は必要ないよねってことで経済性優先になってそれを繰り返してきた会社なんでしょうね。
私の想像ですけど。
ワタシダ
がしました
当時は電車としては長距離の運転だったので、トイレや荷物室を持っていたのが今からすると驚きですね。
銘板では、大正14年製とされている車輌もあったそうなので、開通までメーカーに完成後もしばらく留め置かれていたのかもしれません。
不思議なのは、省がまだ「デハ73200形」とか形式を付けていた時代に、既に「モハ1形」、「モハニ101形」というように形式記号を付けていたことと、一時期ローマン体の数字で番号を車体に記入していた時期があることでしょうか。東急との合併時に、モハ→デハにされてしまったのは、ちょっと残念な感じもしなくはないです。デハ1600形は本来小田原急行モハ1000形として計画されたものでした。
ワタシダ
がしました
今の電車のような明るさや軽快感はありませんが、レトロ調の落ち着きが感じられる良い車両です。
ワタシダ
がしました