戦時中は大東急の一員となり、戦後に分離独立したことで成立した現在の小田急。
戦災による被害は比較的少なかったといわれる小田急ですが、資材が枯渇する中で酷使された車両はボロボロで、戦後はやり繰りの苦労があったそうです。
現代の姿からは想像もできない、戦後の小田急についてまとめてみたいと思います。
空襲で車両や設備が損傷する等、鉄道も戦争末期には甚大な被害を受けましたが、小田急は比較的被害が少なかったといわれています。
他の鉄道に比べれば被害が少ないとはいっても、戦争末期になるほど資材は不足し、悪い状態の線路や枕木を使わざるを得ない状況となり、江ノ島線は藤沢から片瀬江ノ島にかけてが単線となりました。
電化された鉄道では生命線となる電気についても不足しており、なんとかして電車を動かすような状態だったのでしょう。
車両の状態も悪くなり、ガラスが入っていない車両というのは当たり前の存在だったようです。
前面や運転士の横に入るガラスは優先されたそうですが、側面は窓に板が入れられている有様でした。
状況によっては抜けたまま走ることもあったようで、寒い時期は相当辛かったであろうことが推測できます。
そのような状況であれば、車内についても満足な状態ではないわけで、座席にクッションがないというのは当たり前となっていました。
現代の車両は椅子の座り心地が悪いといった声もありますが、それさえも贅沢だった時代があったわけです。
現在は1,000両を超えていることを踏まえれば、相当少なかったといえるわけですが、その中でも稼働できたのは半分程度だったといわれています。
戦争が終わったとはいえ、資材不足の状況がすぐに改善したわけではないため、動かせる車両を増やすのは大変だったそうです。
今も置き換えのタイミングで似たようなことが行われますが、動かせない車両から部品をかき集め、走れる車両にするといった状況でした。
走れるとはいえ、完全な状態ではない車両もあったようです。
照明関係が機能せず、日中専用車となっていたケースもあり、現代からすれば考えられない時代です。
そんな状況下でも、復興に向かう世の中では電車の混雑が激しく、乗客で溢れ返る日々が続きました。
海外では車両の屋根にまで人が乗るといった状況もありますが、戦後は日本でも運転台や連結器にまで乗客が溢れ、必死に輸送する日々が続いたようです。
復興に向けて必死に生きた方々がいたことを忘れないようにして、大切に日々を過ごしていきたいと思います。
戦災による被害は比較的少なかったといわれる小田急ですが、資材が枯渇する中で酷使された車両はボロボロで、戦後はやり繰りの苦労があったそうです。
現代の姿からは想像もできない、戦後の小田急についてまとめてみたいと思います。
資材不足で追い詰められる小田急
世界情勢が混沌としつつあり、年々不安が高まっているのが正直な気持ちですが、日本においても先の大戦では壊滅的な被害を受けました。空襲で車両や設備が損傷する等、鉄道も戦争末期には甚大な被害を受けましたが、小田急は比較的被害が少なかったといわれています。
他の鉄道に比べれば被害が少ないとはいっても、戦争末期になるほど資材は不足し、悪い状態の線路や枕木を使わざるを得ない状況となり、江ノ島線は藤沢から片瀬江ノ島にかけてが単線となりました。
電化された鉄道では生命線となる電気についても不足しており、なんとかして電車を動かすような状態だったのでしょう。
車両の状態も悪くなり、ガラスが入っていない車両というのは当たり前の存在だったようです。
前面や運転士の横に入るガラスは優先されたそうですが、側面は窓に板が入れられている有様でした。
状況によっては抜けたまま走ることもあったようで、寒い時期は相当辛かったであろうことが推測できます。
そのような状況であれば、車内についても満足な状態ではないわけで、座席にクッションがないというのは当たり前となっていました。
現代の車両は椅子の座り心地が悪いといった声もありますが、それさえも贅沢だった時代があったわけです。
苦労して電車を動かした戦後の小田急
大東急から分離独立した頃の小田急には、100両ほどの車両が在籍していました。現在は1,000両を超えていることを踏まえれば、相当少なかったといえるわけですが、その中でも稼働できたのは半分程度だったといわれています。
戦争が終わったとはいえ、資材不足の状況がすぐに改善したわけではないため、動かせる車両を増やすのは大変だったそうです。
今も置き換えのタイミングで似たようなことが行われますが、動かせない車両から部品をかき集め、走れる車両にするといった状況でした。
走れるとはいえ、完全な状態ではない車両もあったようです。
照明関係が機能せず、日中専用車となっていたケースもあり、現代からすれば考えられない時代です。
そんな状況下でも、復興に向かう世の中では電車の混雑が激しく、乗客で溢れ返る日々が続きました。
海外では車両の屋根にまで人が乗るといった状況もありますが、戦後は日本でも運転台や連結器にまで乗客が溢れ、必死に輸送する日々が続いたようです。
おわりに
戦後という困難な時代を体験した世代ではないため、当時の状況は書籍等でしか知ることができませんが、現代は贅沢な時代なのだと改めて感じました。復興に向けて必死に生きた方々がいたことを忘れないようにして、大切に日々を過ごしていきたいと思います。
コメント
コメント一覧 (8)
以前から疑問なのですが、大東急の渋谷駅で東横線と井の頭線を乗り継ぐときは初乗り運賃を取られたのでしょうか。
ワタシダ
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元住吉にあった東急デハ3550形(計画倒れで京王1700形に充当)用に事前確保してあった電機品のおかげで余所よりはマシだったようですが
ワタシダ
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小田急は多摩線を除く現在の路線網を2年で完成させたぐらいですがそれでも100両程度の両数やと考えると当時の列車本数はそれなりに少なかったでしょうし、終戦直後は2ケタ台のみ稼働できたことを考えると間引き運転もザラやなかったでしょう。それを考えると他の私鉄も含めて国鉄から63系ベースの1800形を導入した経緯も納得できますし(一部は名鉄からの譲受車)、車体の長さや大きさから今日における20m車体通勤型車両の礎となったことも感慨深いものです。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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