ドアの幅を2mにまで広げ、ラッシュ時の切り札として登場した1000形のワイドドア車。
2mという幅は広すぎたという判断になったものの、小田急は3000形の初期車まで、通常よりドアの幅が広い車両を造り続けました。

ワイドドア車は1991年に営業運転を開始しましたが、小田急はなぜこのような車両を造る必要があったのでしょうか。
地上の設備を整えて編成の両数を増やし、車両を大型化していくことが基本的な流れでしたが、利用者の増加は小田急の予測を超えるペースで進んでいくこととなります。
現在の基本である10両編成は、1977年に急行、1978年に準急で登場し、小田急における最大編成はこの時点で確立されました。
当然のことながら、一気に全ての列車が10両化されたわけではなく、ダイヤ改正を重ねることで輸送力増強が進められることとなります。
昭和という時代が終わる頃には、大半の急行が10両化されている状態となりますが、中型車と呼ばれる長さが短い車両を使用した列車が残っていました。
これらの車両についても、大型車への置き換えを通じて輸送力の増強が進められ、時代が平成になる頃には大型車のみでの10両が当たり前となっていきます。
1988年には、近郊区間における各駅停車が8両化され、ラッシュ時の輸送力はさらに増強が進められることとなりました。
しかし、この時点で編成の増強は限界を迎え、車両の両数をさらに増やすことはせず、抜本的な対策として複々線化を進めることとなります。
1時間あたりの本数は増やせず、編成の両数を増やすことも難しい、そんな苦しい状況が小田急にとっての1990年代です。
複々線化により解決を図るとはいっても、完成までは長い年月を要することが見込まれ、少しでもラッシュ時の輸送を改善することを目的として、ワイドドア車という車両が登場することとなりました。
ドアの幅を広げることで、乗降をスムーズにできるようにするだけでなく、座席を折りたたんで運用することで、乗車できる人数を増やすことも狙った設計となっています。
小田急の対策はワイドドア車だけではなく、分割併合を行わない列車においては、8両や10両の固定編成を導入することで、編成の中間に入る先頭車の削減を進めました。
先頭車の数が減れば、乗車できる人数は僅かながら増えますが、言い換えればそれぐらいしか策がなかったともいえるでしょう。
このような背景の中でワイドドア車という車両が造られましたが、狙ったとおりの結果にならなかったのは、その後の経緯を見れば言うまでもありません。
一方で、できることが限られる中でも、果敢にチャレンジをしていたという面では、先人の皆さまを見習わなくてはいけないようにも思いました。
既に全編成が退役してしまいましたが、苦しい時代に生まれた挑戦の車両だったともいえそうです。
2mという幅は広すぎたという判断になったものの、小田急は3000形の初期車まで、通常よりドアの幅が広い車両を造り続けました。

ワイドドア車は1991年に営業運転を開始しましたが、小田急はなぜこのような車両を造る必要があったのでしょうか。
見えてきた輸送力増強の限界
戦後になっても数両の編成で運行していた小田急ですが、高度経済成長期を中心に沿線人口が急増し、輸送力の増強を迫られました。地上の設備を整えて編成の両数を増やし、車両を大型化していくことが基本的な流れでしたが、利用者の増加は小田急の予測を超えるペースで進んでいくこととなります。
現在の基本である10両編成は、1977年に急行、1978年に準急で登場し、小田急における最大編成はこの時点で確立されました。
当然のことながら、一気に全ての列車が10両化されたわけではなく、ダイヤ改正を重ねることで輸送力増強が進められることとなります。
昭和という時代が終わる頃には、大半の急行が10両化されている状態となりますが、中型車と呼ばれる長さが短い車両を使用した列車が残っていました。
これらの車両についても、大型車への置き換えを通じて輸送力の増強が進められ、時代が平成になる頃には大型車のみでの10両が当たり前となっていきます。
1988年には、近郊区間における各駅停車が8両化され、ラッシュ時の輸送力はさらに増強が進められることとなりました。
しかし、この時点で編成の増強は限界を迎え、車両の両数をさらに増やすことはせず、抜本的な対策として複々線化を進めることとなります。
車両側での工夫による輸送力増強
1963年からラッシュ時に平行ダイヤを導入し、ピーク時の1時間に30本の列車を走らせるようになった小田急は、1972年に編成が長くなったことを理由に29本にしつつも、その後の本数は変わらずに推移していました。1時間あたりの本数は増やせず、編成の両数を増やすことも難しい、そんな苦しい状況が小田急にとっての1990年代です。
複々線化により解決を図るとはいっても、完成までは長い年月を要することが見込まれ、少しでもラッシュ時の輸送を改善することを目的として、ワイドドア車という車両が登場することとなりました。
ドアの幅を広げることで、乗降をスムーズにできるようにするだけでなく、座席を折りたたんで運用することで、乗車できる人数を増やすことも狙った設計となっています。
小田急の対策はワイドドア車だけではなく、分割併合を行わない列車においては、8両や10両の固定編成を導入することで、編成の中間に入る先頭車の削減を進めました。
先頭車の数が減れば、乗車できる人数は僅かながら増えますが、言い換えればそれぐらいしか策がなかったともいえるでしょう。
このような背景の中でワイドドア車という車両が造られましたが、狙ったとおりの結果にならなかったのは、その後の経緯を見れば言うまでもありません。
一方で、できることが限られる中でも、果敢にチャレンジをしていたという面では、先人の皆さまを見習わなくてはいけないようにも思いました。
おわりに
側面に幅が2mもあるドアを備え、外見にも相当なインパクトがあったワイドドア車。既に全編成が退役してしまいましたが、苦しい時代に生まれた挑戦の車両だったともいえそうです。
コメント
コメント一覧 (18)
ワタシダ
が
しました
停車時間の短縮から1本でも増発できるかも
という目的のもので
乗車定員が増えるというものではなかったですからねえ
そして小田急が採用した2mともなると
閉扉時のおさまりが極端に悪く
多ドア車に比べて整列乗車位置の変更は無い有利さがあっても
通常幅のものと比べて乗降時分短縮の上では有利でもないか
場合によっては余計に時間がかかるともされ
開口幅縮小の改造が行われることにも…
結局
29本/時 から増発はできたのだろうか?…
ワタシダ
が
しました
開扉幅の縮小はされたものの、今度はホームドアに対応出来なかったので、比較的短命に終わった1000形ワイドドアは、何か気の毒な車両でしたね(T_T)
ワタシダ
が
しました
小田急1500・1700・1900型はもちろん、営団05系114-118F、Tokyo Metro15000系…
セミワイドになりますが横浜市地下鉄3000形(以降ブルーライン車両のドアは1.5mで統一)、小田急2000形(乗務員室直後除き1.6m)
しかしドアが広いと開閉に時間がかかるため、それが各駅で繰り返されると所要時間にずいぶん響いてきますし、その間に駆け込み乗車されるリスクもデカくなるんですね。なので、ドア幅が1.4m、これ中途半端に見えて意外と総じてスムーズらしいです。営団03系やTokyo Metro2000系がこの幅を採用しています。
ワタシダ
が
しました
平成初頭の時点でJRは都心から郊外まで複々線が完成して常磐線や総武線では15両運転も始まってました。対する小田急はJRと遜色ない利用者数、路線距離なのに複々線工事は着手したばかりでホームも短く10両編成すら満足に走らせられない状況で乗客の不満は最高潮。
そこで小田急が苦肉の策で生み出したのがワイドドア車なわけです。
東武や西武、昔の国鉄みたく途中駅まで並行して地下鉄が建設されることを受け入れてれば、平成初頭には喜多見まで千代田線が延伸されて都内の混雑は解消してたのでしょう。小田急が自社の利益のために千代田線の喜多見合流計画を潰して自社での複々線化に固執した結果、混雑が解消するまでにとんでもない年月がかかってしまいました。
ワタシダ
が
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後年の1700形は8000形チョッパと同様一人寂しく単独運用に就いていたのが印象的でしたね。
因みに1900形4両と3000形ワイドとの連結はあったのでしょうか?
ワタシダ
が
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限界まで乗せて、多摩センターから唐木田まで走行させたとか•••
運用開始当初は朝の上りにワイドドア車のみで組成した列車があったので、ワイドドアの効果を測りたいのだと思っていました。
LEDやLCDなども含めて試行錯誤を具現化したような車両でしたね。
ワタシダ
が
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ワタシダ
が
しました
しかしワイドドア車は混雑緩和効果が薄く(東西線ではその後15000系で再度採用されましたが)、多扉車は近年になってホームドアによるドア位置統一の関係で淘汰の対象とされ、如何に時代の流れが変化したかを実感させられます。とは言え、小田急が1000形での反省点を活かしつつ試行錯誤を繰り返して3000形1次車までワイドドアを採用し続けたのは今改めて思うと奇跡的やったとも言えますね。
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました