まもなく行われるダイヤ改正において、多くの列車が10両になると見込まれる小田急の多摩線。
1974年の開業以来、沿線の発展に合わせて輸送力を増強してきましたが、近年は本数の面で減便傾向となっています。
そんな多摩線ですが、開業直後の利用者があまりにも少なかったため、4両から2両に減車された歴史がありました。
計画段階では、黒川までの部分開業を想定していたようですが、後に変更されたものと思われます。
開業直後の多摩線では、ABF車と呼ばれた車両の4両編成が主に使われ、1700形、1900形、2100形が充当されました。
しかし、小田原線でさえ4両編成の各駅停車が走る時代において、多摩線には過剰な輸送力だったようで、空気を運ぶ列車となってしまいます。

写真提供:小田急指令掛川様
利用状況に合わせるべく、開業から4ヶ月ほどが経過した10月に多摩線の減車が行われ、ABF車の2両編成が使われるようになりました。
2両化されたことで、必然的に充当されるのは1900形となり、1911Fから1914Fまでの4編成がその役目を担うこととなります。
多摩線が2両編成になった直後、ABF車は廃車が始まっており、1700形から数を減らしていくこととなりました。
減車とABF車の廃車における因果関係は不明ですが、必要な編成数が減ることだけは間違いなく、廃車を急ぎたい状況においては有効だったといえます。
というのも、当時の小田急は前年に発生した脱線事故の関係で、4000形の中間車を増備して5両化する必要に迫られており、ABF車のモーターが流用されました。

写真提供:小田急指令掛川様
結果として1900形の2両編成はABF車の中で最後まで残り、1976年まで活躍することとなります。
1900形の引退後は2200形が多摩線内の輸送を引き継ぎますが、4両へと戻されるのはもう少し先のことでした。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
踏切がない高規格の路線ながら、走っているのは最古参級の車両というのは、今思えばミスマッチで面白いものですね。
1974年の開業以来、沿線の発展に合わせて輸送力を増強してきましたが、近年は本数の面で減便傾向となっています。
そんな多摩線ですが、開業直後の利用者があまりにも少なかったため、4両から2両に減車された歴史がありました。
4両から2両に減車された多摩線
1974年6月1日に開業した多摩線は、新百合ヶ丘から小田急永山までの部分開業でスタートしました。計画段階では、黒川までの部分開業を想定していたようですが、後に変更されたものと思われます。
開業直後の多摩線では、ABF車と呼ばれた車両の4両編成が主に使われ、1700形、1900形、2100形が充当されました。
しかし、小田原線でさえ4両編成の各駅停車が走る時代において、多摩線には過剰な輸送力だったようで、空気を運ぶ列車となってしまいます。

写真提供:小田急指令掛川様
利用状況に合わせるべく、開業から4ヶ月ほどが経過した10月に多摩線の減車が行われ、ABF車の2両編成が使われるようになりました。
2両化されたことで、必然的に充当されるのは1900形となり、1911Fから1914Fまでの4編成がその役目を担うこととなります。
1900形で運行された時代
減車によって、1900形の独壇場となった多摩線でしたが、利用者が少ないという以外の要素もあったのかもしれません。多摩線が2両編成になった直後、ABF車は廃車が始まっており、1700形から数を減らしていくこととなりました。
減車とABF車の廃車における因果関係は不明ですが、必要な編成数が減ることだけは間違いなく、廃車を急ぎたい状況においては有効だったといえます。
というのも、当時の小田急は前年に発生した脱線事故の関係で、4000形の中間車を増備して5両化する必要に迫られており、ABF車のモーターが流用されました。

写真提供:小田急指令掛川様
結果として1900形の2両編成はABF車の中で最後まで残り、1976年まで活躍することとなります。
1900形の引退後は2200形が多摩線内の輸送を引き継ぎますが、4両へと戻されるのはもう少し先のことでした。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
おわりに
開業から間もない頃の多摩線において、ひたすら線内を往復する日々を送った1900形。踏切がない高規格の路線ながら、走っているのは最古参級の車両というのは、今思えばミスマッチで面白いものですね。
コメント
コメント一覧 (13)
能勢電鉄日生線も1区間だけで完結の高架新線ですが。
いまやこちらが本線扱い。
開業当初は16メートル級、3桁の旧型車2両でしたから。
同じような違和感だったのを覚えています。
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました
いまは大妻女子に帝京、都立松ヶ谷、都立永山、都立若葉総合、桐光、町田市・都心方面の各校、相模女子などなど、中学・高校だけでも多摩線方面←→小田原線方面の通学利用が双方向にあります。
多摩市内から町田市内の都立高校に通う生徒も多いですし。
ところが開業当時は多摩線が最寄りとなる私学の中高がありませんでしたし、都立高校の学区受験制(町田市は八王子市とセットの第七学区、多摩市は府中市・調布市とセットの第十学区)が廃止されるのもずっと後になってからですから。
都立高校の学区制が順次廃止され、
ワタシダ
が
しました
そして6両編成は原則出禁と
ワタシダ
が
しました
当時の沿線は永山トンネル手前までは街と言えるようなものはなく、何も無い中に線路があり電車が走り駅があるというちょっと不思議な光景でした。
少し遅れて開業した京王相模原線は最大8両だったでしょうか? 早く京王線のように新宿直通が走るようになることを心待ちにしたものです。
その相模原線も、当時の最新鋭6000系や名車5000系、緑の2000系が走っていましたが、ABF車と顔を合わせたこれらの車両も既に過去帳入りしてしまいました。
ワタシダ
が
しました
(途中で間違えててコメント送信してしまったので途中から書いてます)
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました