開業時からの駅名を改称し、現在は生田と読売ランド前となった両駅。
小田急が開業した際の駅名は、東生田と西生田でしたが、1964年に現在の駅名となりました。

元々は一つの予定だった生田駅は、紛争を解決するために二つとされましたが、舞台となった生田村はどれぐらいの広さだったのでしょうか。
兄弟のような駅名だったことになりますが、1964年に遊園地の読売ランド(現在のよみうりランド)が開園するにあたり、西生田を現在の駅名に改称し、東生田は同じタイミングで東を外しています。
小田原線の敷設にあたり、線路が通る生田村内に駅が設けられることになりましたが、位置をめぐって村内で紛争が発生してしまいました。
その状況を収めるべく、最終的には二つの生田駅が造られ、それぞれ東生田と西生田になっています。
現在は読売ランド前を出ると、百合ヶ丘、新百合ヶ丘、柿生と続きますが、開業当時は百合ヶ丘と新百合ヶ丘がなく、かなり駅間距離が長い区間でした。
東生田と西生田の駅間は1.3kmしかないため、ここに二つの駅を配置することが特例だったことは、そのようなことからも分かります。
生田村自体は、1938年に川崎市へと編入されて消滅していますが、どこからどこまでの範囲だったのかを確認してみたいと思います。
まずは東側ですが、向ヶ丘遊園駅を出てすぐの場所が、生田村の東端となっていました。
現在の地名でいうと、多摩区の枡形が該当し、小田急と府中街道が交差する付近です。
続いて西側ですが、こちらは百合ヶ丘駅を出てすぐの場所が西端となっており、百合丘小学校付近を過ぎた辺りでした。
現在の地名では麻生区の高石に該当し、角になるような位置を線路が通っています。
思っていたよりも、生田村の範囲は広かったというのが私の感想ですが、二つの駅が中心に寄っていることにも気付かされました。
色々調べていくと、生田村自体はかなり昔からあり、1889年に町村制が施行された際、いくつかの村が合併して新たに生田村となっています。
高石はその際に合併した地区であり、小田急が開業する時点では既に生田村でしたが、旧生田村の西端は現在の高石歩道橋下交差点付近で、西生田駅の位置はある意味西の端だったことになります。
東側については、旧生田村の段階から位置が変わっていませんが、東生田駅の位置は旧生田村の中心付近であり、最初に設置が計画されたというのも違和感はありません。
つまり、村役場があったとされる村の中心に駅を設置しようとしたところ、西側からの声で事態がややこしくなったわけですが、生田と西生田とするわけにもいかず、位置関係を理由に東生田になったものと思われます。
後に駅名を生田と改めたのも、本来の東生田とは意味が違っていたからなのかもしれませんね。
読売ランド前への改称により、駅名が適正化されたことになりますが、京王の駅が開業したことにより、今度はその駅名が実態に合わないようになってしまったのは、歴史のいたずらのようにも感じます。
小田急が開業した際の駅名は、東生田と西生田でしたが、1964年に現在の駅名となりました。

元々は一つの予定だった生田駅は、紛争を解決するために二つとされましたが、舞台となった生田村はどれぐらいの広さだったのでしょうか。
紛争解決の手段として誕生した二つの駅
1927年に小田急が開業した当時、生田は東生田、読売ランド前は西生田という駅名でした。兄弟のような駅名だったことになりますが、1964年に遊園地の読売ランド(現在のよみうりランド)が開園するにあたり、西生田を現在の駅名に改称し、東生田は同じタイミングで東を外しています。
小田原線の敷設にあたり、線路が通る生田村内に駅が設けられることになりましたが、位置をめぐって村内で紛争が発生してしまいました。
その状況を収めるべく、最終的には二つの生田駅が造られ、それぞれ東生田と西生田になっています。
現在は読売ランド前を出ると、百合ヶ丘、新百合ヶ丘、柿生と続きますが、開業当時は百合ヶ丘と新百合ヶ丘がなく、かなり駅間距離が長い区間でした。
東生田と西生田の駅間は1.3kmしかないため、ここに二つの駅を配置することが特例だったことは、そのようなことからも分かります。
駅を二つ設けた生田村の範囲
東と西で駅を取り合ったことが、二つの生田駅を誕生させるきかっけとなりましたが、そもそも生田村はどれぐらいの広さだったのでしょうか。生田村自体は、1938年に川崎市へと編入されて消滅していますが、どこからどこまでの範囲だったのかを確認してみたいと思います。
まずは東側ですが、向ヶ丘遊園駅を出てすぐの場所が、生田村の東端となっていました。
現在の地名でいうと、多摩区の枡形が該当し、小田急と府中街道が交差する付近です。
続いて西側ですが、こちらは百合ヶ丘駅を出てすぐの場所が西端となっており、百合丘小学校付近を過ぎた辺りでした。
現在の地名では麻生区の高石に該当し、角になるような位置を線路が通っています。
思っていたよりも、生田村の範囲は広かったというのが私の感想ですが、二つの駅が中心に寄っていることにも気付かされました。
色々調べていくと、生田村自体はかなり昔からあり、1889年に町村制が施行された際、いくつかの村が合併して新たに生田村となっています。
高石はその際に合併した地区であり、小田急が開業する時点では既に生田村でしたが、旧生田村の西端は現在の高石歩道橋下交差点付近で、西生田駅の位置はある意味西の端だったことになります。
東側については、旧生田村の段階から位置が変わっていませんが、東生田駅の位置は旧生田村の中心付近であり、最初に設置が計画されたというのも違和感はありません。
つまり、村役場があったとされる村の中心に駅を設置しようとしたところ、西側からの声で事態がややこしくなったわけですが、生田と西生田とするわけにもいかず、位置関係を理由に東生田になったものと思われます。
後に駅名を生田と改めたのも、本来の東生田とは意味が違っていたからなのかもしれませんね。
おわりに
生田駅が二つあったことは有名ですが、生田村の歴史を見ていくと、意外な事実が隠れていました。読売ランド前への改称により、駅名が適正化されたことになりますが、京王の駅が開業したことにより、今度はその駅名が実態に合わないようになってしまったのは、歴史のいたずらのようにも感じます。
コメント
コメント一覧 (8)
で車が線路の上を走っていました。おそらく、生田1号踏切から進入し
たようで、たまたま電車は走っていなかったので事故にはなりませんで
したが、車は線路内で、動けなくなり立往生してしまい、向ヶ丘遊園〜
新百合ヶ丘間の上下線で、運転見合わせになってしまいました。
車を運転していたのは、向ヶ丘遊園駅近くの医科大学の学生でした。
ワタシダ
が
しました
開業当時からすると、稲田登戸(現向ヶ丘遊園)から東生田(生田)2.1km(今も)、
東生田-西生田1.3kmは不自然だったのかもしれません。
当時は西生田から柿生まで、現在の距離で4.2km駅がありませんでした。
新百合ヶ丘開業で線路が付け替えられるまでは小田急も世田谷町田線と並行してカーブの線形で、もっとあったはずです。
もし西生田がつくられなかったら5.5km以上駅がないことになっていました。
ワタシダ
が
しました
読売ランド前を鶴川みたいに上り線だけでも待避線を造ってくれていたら朝のノロノロ運転がなくなっていたのにと思いますね。
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました
読売ランド前駅は、昭和50年台前半に勤務していました。
ワタシダ
が
しました