日本初のオールステンレス車体の車両として、1962年に東急7000系がデビューしました。
後に一部の車両が7700系に改造され、2018年まで現役で活躍することとなります。
そんな7000系ですが、小田急の線路を走行した過去がありました。
あくまでも試運転としてでしたが、なぜ小田急線内を走ることになったのでしょうか。
1963年の小田急はまだ2600形が登場しておらず、本格的な大型車の時代に突入していくのは翌年からのことです。
7000系が小田急線内に入線した理由は、履いている台車にありました。
パイオニア台車と呼ばれるものであり、アメリカのバッド社からライセンス供与を受け、東急車輛製造が日本に供給しています。
小田急が1966年に導入する4000形では、試運転の理由であったパイオニア台車が採用されました。
4000形を製造したメーカーは、東急車輛製造が圧倒的に多くを占めており、台車との関連が分かりやすい結果となっています。
小田急線内に入線したのは、7000系のデハ7019とデハ7020の2両で、新宿から小田原までを100km/h以上で走行する試運転を行いました。
パイオニア台車には、高速運転時に蛇行動が発生する欠点がありましたが、4000形の導入時に設計が改善されていることから、関連する試運転だったことがうかがえます。
7000系は後に一部の車両がVVVFインバーター制御となり、形式も7700系へと改められますが、小田急を走行した車両もそれに該当し、クハ7913とデハ7713となっています。

7000系が7700系に改造された背景は4000形と似ており、そのままでは冷房化が難しかったという背景があります。
床下に機器を追加するスペースがなかったことや、台車が重量の増加に耐えられないといったもので、後者は完全に4000形と同じ理由です。
運よく7700系となった2両は、4両編成での活躍後に3両化され、2011年まで活躍しました。
東急に長く残ることができた反面、多くの仲間が他社で活躍する状況下において、比較的早く解体されてしまったともいえそうです。
オールステンレスの車体はプラスに作用し、活躍した期間は4000形よりもかなり長くなっています。
後に一部の車両が7700系に改造され、2018年まで現役で活躍することとなります。
そんな7000系ですが、小田急の線路を走行した過去がありました。
あくまでも試運転としてでしたが、なぜ小田急線内を走ることになったのでしょうか。
小田急線内を走った2両の7000系
東急の7000系が登場した翌年、1963年に小田急線内を走行する試運転が行われました。1963年の小田急はまだ2600形が登場しておらず、本格的な大型車の時代に突入していくのは翌年からのことです。
7000系が小田急線内に入線した理由は、履いている台車にありました。
パイオニア台車と呼ばれるものであり、アメリカのバッド社からライセンス供与を受け、東急車輛製造が日本に供給しています。
小田急が1966年に導入する4000形では、試運転の理由であったパイオニア台車が採用されました。
4000形を製造したメーカーは、東急車輛製造が圧倒的に多くを占めており、台車との関連が分かりやすい結果となっています。
小田急線内に入線したのは、7000系のデハ7019とデハ7020の2両で、新宿から小田原までを100km/h以上で走行する試運転を行いました。
パイオニア台車には、高速運転時に蛇行動が発生する欠点がありましたが、4000形の導入時に設計が改善されていることから、関連する試運転だったことがうかがえます。
小田急4000形と同じ歴史を歩んだ7000系
小田急線内を走行した7000系は、その後東急へと戻って活躍を続けました。7000系は後に一部の車両がVVVFインバーター制御となり、形式も7700系へと改められますが、小田急を走行した車両もそれに該当し、クハ7913とデハ7713となっています。

7000系が7700系に改造された背景は4000形と似ており、そのままでは冷房化が難しかったという背景があります。
床下に機器を追加するスペースがなかったことや、台車が重量の増加に耐えられないといったもので、後者は完全に4000形と同じ理由です。
運よく7700系となった2両は、4両編成での活躍後に3両化され、2011年まで活躍しました。
東急に長く残ることができた反面、多くの仲間が他社で活躍する状況下において、比較的早く解体されてしまったともいえそうです。
おわりに
時代を先取りしたような車両であった7000系は、足回りの換装や冷房化といった、小田急の4000形と似たような歴史を歩みました。オールステンレスの車体はプラスに作用し、活躍した期間は4000形よりもかなり長くなっています。
コメント
コメント一覧 (9)
ワタシダ
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東急7000系のパイオニア台車はP-III701台車で、小田急がその後試用するデハ1300に装着したP-III704、4000のP-III706はボルスターアンカーの位置を低くし、そのために台車枠も下方向に湾曲させたものになっているのは、その「高速域での蛇行動防止」のためではと思われますね。
当時の小田急では、試用してみてそのまま採用するのではなく、技術的改良を施してから採用するというような空気があり、今よりずっとアグレッシブだったように思えます。
P-III704台車は、「鉄道ピクトリアル976号206ページ」に写真があります。
ワタシダ
が
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その時代は線路の幅が同じで車両限界の問題をクリアしていたら、他社線を走ることが難しくない時代でした。
今の時代だったら様々な保安設備を各社が導入していて、簡単に他社の車両を走らせることはできませんね。
ワタシダ
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サハ7950形は目蒲線分断にともなう多摩川線3連化に合わせ脱車され、7915Fに改造された3両除き2001年までに全て解体されました。
しかし養老鉄道に渡った編成は、まさに「養老」となったといいますか、(東急時代から数えて)計80年使う計画となりました。初代7000系登場時、腐食の心配のなさとステンレスの抗張力さから「80年使える」とも言われましたからね。
ワタシダ
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ワタシダ
が
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現在ではパイオニア台車を履く各形式は南海を除き既に第一線を退いた中、地方私鉄に譲渡された車両たちは現在もなお活躍を続けとります。中には福島交通や弘南鉄道(いずれも元東急旧7000系からの改造車)のように譲渡先でもパイオニア台車がそのまま活用されとるケースもありますとか。
ワタシダ
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ワタシダ
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