長く千代田線を代表する車両として活躍し、2018年に現役を引退した東京メトロの6000系。
左右非対称の前面デザインが特徴で、6000系の登場は各方面に影響を与えたといわれています。
そんな6000系ですが、大規模な車両更新を多数の編成が受けながらも、一部は未施工で廃車となった過去があります。
車両に対する方針を大転換したと思われる、2000年代からの動きを振り返ります。
冷房化を急ぐ関係等で中断を挟みつつ、3次車までの21本は全編成が更新され、多種多様な仕様となって活躍することとなりました。
8000系の設計が反映され、側窓が下降式となったことが目立つ4次車については、2003年度から車両更新が開始されます。
3次車までの車両更新とは異なり、ドアの窓が大型化されたことに驚かされ、更新後に側面の印象は大きく変化しました。

特徴的な前面デザインはそのままながら、冷房装置の交換等もあってか、更新後の姿は洗練されたように感じます。
機器更新についても3次車までとは変更され、完了後は5M5Tの構成となりました。
4次車以降の6000系は合計14本が在籍しており、それらが整った更新車になることは、乗り入れてくる小田急のファンの私にとっても、楽しみの一つとなります。
しかし、2006年度までに7本が更新されたところで止まってしまい、2004年に民営化された影響を感じました。
チョッパ制御車の6000系を置き換えることが目的で、2012年度までに16本が相次いでデビューしました。
置き換え対象がチョッパ制御車だった時点で、6000系は全編成の更新が行われないことが確定し、4次車以降で未更新だった各編成は、全て廃車という運命を辿ります。
車両更新が止まった時期と、16000系が登場したタイミングを踏まえれば、民営化によって方針が転換したと見ることもできそうです。
16000系への置き換えが進められた結果、製造時期は大きく異なるものの、6000系はVVVFインバーター制御車だけとなりました。
これで落ち着くようにも思われましたが、数年が経過した2015年度に16000系の増備は再開されます。
2015年度中には、早くも後期の更新車である6128Fが廃車となり、この時点で6000系の運命は決まってしまいました。
民営化後は異なる動きとなり、6000系は更新から10年程度で廃車となる編成も発生しましたが、多くはインドネシアへと渡り、現在も活躍を続けています。
民営化後も株主は国等であったことから、インドネシアへの経済援助等も、方針転換に影響を与えたのかもしれませんね。
左右非対称の前面デザインが特徴で、6000系の登場は各方面に影響を与えたといわれています。
そんな6000系ですが、大規模な車両更新を多数の編成が受けながらも、一部は未施工で廃車となった過去があります。
車両に対する方針を大転換したと思われる、2000年代からの動きを振り返ります。
驚かされた4次車以降の車両更新
支線用となった3両を除くと、10両編成が35本の陣容となっていた6000系は、1987年度に車両更新がスタートします。冷房化を急ぐ関係等で中断を挟みつつ、3次車までの21本は全編成が更新され、多種多様な仕様となって活躍することとなりました。
8000系の設計が反映され、側窓が下降式となったことが目立つ4次車については、2003年度から車両更新が開始されます。
3次車までの車両更新とは異なり、ドアの窓が大型化されたことに驚かされ、更新後に側面の印象は大きく変化しました。

特徴的な前面デザインはそのままながら、冷房装置の交換等もあってか、更新後の姿は洗練されたように感じます。
機器更新についても3次車までとは変更され、完了後は5M5Tの構成となりました。
4次車以降の6000系は合計14本が在籍しており、それらが整った更新車になることは、乗り入れてくる小田急のファンの私にとっても、楽しみの一つとなります。
しかし、2006年度までに7本が更新されたところで止まってしまい、2004年に民営化された影響を感じました。
車両更新から置き換えへの大転換
6000系の車両更新が行われなくなり、数年が経過した2010年度になると、千代田線には後継車である16000系が登場します。チョッパ制御車の6000系を置き換えることが目的で、2012年度までに16本が相次いでデビューしました。
置き換え対象がチョッパ制御車だった時点で、6000系は全編成の更新が行われないことが確定し、4次車以降で未更新だった各編成は、全て廃車という運命を辿ります。
車両更新が止まった時期と、16000系が登場したタイミングを踏まえれば、民営化によって方針が転換したと見ることもできそうです。
16000系への置き換えが進められた結果、製造時期は大きく異なるものの、6000系はVVVFインバーター制御車だけとなりました。
これで落ち着くようにも思われましたが、数年が経過した2015年度に16000系の増備は再開されます。
2015年度中には、早くも後期の更新車である6128Fが廃車となり、この時点で6000系の運命は決まってしまいました。
おわりに
製造から40年程度の使用を想定し、東京メトロの前身である営団地下鉄は車両更新を行ってきました。民営化後は異なる動きとなり、6000系は更新から10年程度で廃車となる編成も発生しましたが、多くはインドネシアへと渡り、現在も活躍を続けています。
民営化後も株主は国等であったことから、インドネシアへの経済援助等も、方針転換に影響を与えたのかもしれませんね。


コメント
コメント一覧 (19)
たので、6000形の車番を使わなかったそうです。
LSEは7000形、次の通勤車両は8000形にしたそうです。
9000形は、千代田線の9号線に因んで先に使ったそうです。
ワタシダ
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ワタシダ
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でも当時の営団は冷房改造が困難な車両の取替で06系・07系で置き換える余裕は無かったようにも見えますね。
東西線の5000系はセミステンレス車のタイプは内部の骨組みが想像以上に傷んだり(これは他社の京成3500形や都営新宿線の初期車も同様)で2010年にようやく順番が回ってきたと感じましたね。
ワタシダ
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しかし千代田線は大江戸線との公式接続駅ができなかったんですね…乃木坂は大江戸線(青山一丁目~六本木間)が素通りしますし。湯島も大江戸線にスルーされますが、同駅2番出口が上野御徒町駅に近く、徒歩での乗換が容易です(運賃は通算されず連絡割引対象外)。
ワタシダ
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06/07系シリーズ、なんであんなに少ない&短命だったんでしょうね?
ワタシダ
が
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ワタシダ
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しかし昔6000系の3次車以前を見た時、「未修繕時代の初期車の内装ってどうなっていたんだろ…キノコ断面に木目調内装はエモいな」とか脳内で妄想しました(笑)6000系をよく利用するようになったのは初期車の原型内装が全滅した直後からだったので…。しかし袖仕切りは修繕時にフィルムを張り付けただけなので、それを剥がすと原型の配色が出てくるらしいですね。
しかし06系は2012年頃にスタンションポール設置がされたものの、まともに使われずに3年弱で修繕されることなく廃車解体…当時のメトロは保存に消極的で、同系は生首一つ残さず完全解体されましたね…6000・7000・03系がフル保存されているのは、コロナで改造が減って工場に余裕が出たり、社長が変わったことによる方針転換なのだろうか…?
しかし16000系、初登場からまもなく15年なんですね。16年前にデザインされたとは思えない古さを感じないデザインが印象的です。
ワタシダ
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ワタシダ
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紅一点ならぬ、緑一点の存在だったはず。
当時の国鉄時代において、国鉄線内から、
小田急線内の行先は、本厚木だけだった。
相互乗り入れは、営団車だけに行われ、
今の東西線のように、
乗り入れ車輌は、限定的だったけど、
なんか興味津々だった。
ワタシダ
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ただ、インドネシアに多数が渡ったとはいえ、いわゆる「大窓更新車」は現実にメトロ線で用途廃止(廃車)になった時点から起算してもう10年は使えたんじゃないんかなぁ、と思います。
ワタシダ
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インドネシアの中古車事情で廃車時期がもっと遅ければもっと大掛かりに改造されていた7000系のような運命を辿っていた可能性もあり、あの時期に廃車されたからこそ今があるんでしょうね。
ワタシダ
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そんな6000系ですが、小田急線内では本厚木発着の準急を筆頭に多摩急行や多摩線直通の急行など優等列車を中心に活躍しており、晩年まで第一線を貫き通したのは有名な話です(7000系も一部が副都心線対応改造を受けて東横線特急でも活躍した編成がある他、8000系も南栗橋〜中央林間間のロングラン運用をこなすなど、第一線での活躍が続きました)。近年ではインドネシアに譲渡された編成にも廃車が出とりますが、これからも異国の地で長く活躍することを期待する次第です。
ワタシダ
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ワタシダ
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(そして故障で21年でお陀仏になった6135fも…)
ただ3分の2がインドネシアに渡った上、新木場に6102fとハイフン車を営団マークにして保存してくれたのには大感謝です。
千代田線関連ですが209系1000番台トタ82の片方の先頭車が打ち首になった上に事故で大破したC606が今日大宮へ回送されたので、先頭部分だけ移植して再起するのではという予想が出てます。
ワタシダ
が
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ワタシダ
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