国鉄の63形をルーツとし、後に車体を更新して小田急風のスタイルとなった1800形。
小田急における大型車の元祖ともいえる車両で、抜群の収容力を活かして1981年まで活躍しました。
大型車であった1800形は、朝のラッシュ時に8両編成を組み、優等列車でも大活躍しています。
わざわざ2両を4本も繋いで使われたのは、どういった理由からだったのでしょうか。
切妻の前面を持つ大きな車体が8両も繋がる姿は、平日の朝にしか見られない貴重なものとなります。
1800形が8両編成で走るようになる以前には、4000形と1800形を繋いだ姿が見られました。
この併結運転は1969年から始まったものですが、1973年に連続して2回の脱線事故が発生したことから、4000形と組んでの運用は急遽中止となり、以降は1800形だけで8両編成を組むこととなります。
8両編成は朝のラッシュ時に2本が運行され、上りの急行列車からスタートしました。
1本目は江ノ島線から4両で急行として走り、相模大野駅で小田原駅発の急行と併合します。
2本目はどちらも小田原線の列車で、小田原駅を4両で先発した各駅停車の本厚木行きに対して、同駅で後続の急行を併合するものでした。

写真提供:小田急指令掛川様
新宿駅に到着した各列車は、どちらも準急として8両編成のまま折り返し、それぞれ本厚木行きと相模大野行きとなります。
本厚木行きは相模大野駅で分割が行われ、後ろの4両は各駅停車本厚木行きとなって後を追いかけました。
朝の名物列車であった1800形の8両編成は、1977年のダイヤ改正で姿を消すこととなります。
このダイヤ改正では急行の10両化が行われており、4両で半固定編成化されていたこともあってか、役割を終えることになったようです。
当時でさえ、2600形や9000形の6両編成は既に存在しており、そんな中でも1800形の8両編成が運行されていたことになります。
このような状況下において、1800形を沢山繋いで優等列車を仕立てていたわけですが、それには合理的な理由がありました。
1800形は大型車体という長所がある反面、加速が悪いという短所も抱えており、それらを総合的に解決できるのが8両編成の優等列車だったのです。
説明するまでもなく、20m級の車体である1800形は詰め込みが可能です。
当時は2400形等の中型車も多く在籍しており、1800形という存在をラッシュ時に活用しない手はありませんでした。
車体は大きいものの、吊り掛け駆動で重い1800形は加速が悪く、その点ではラッシュ時に向かない要素も持ち合わせていました。
そこで、過密運転となる区間では優等列車とすることで、加速が必要な機会自体を減らし、長所を活かしつつ短所を補うこととしたのです。
少数のバリエーションに富んだ車両が在籍した当時は、それらを最大限活用しなければいけない状況下でもあり、そんな時代背景がこのような面白い列車を生んだともいえるでしょう。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
後年には5両を2本繋いだ10両編成が見られたのも、1800形と同じ理由だったことになりますね。
小田急における大型車の元祖ともいえる車両で、抜群の収容力を活かして1981年まで活躍しました。
大型車であった1800形は、朝のラッシュ時に8両編成を組み、優等列車でも大活躍しています。
わざわざ2両を4本も繋いで使われたのは、どういった理由からだったのでしょうか。
朝のラッシュ時に見られた1800形の8両編成
最終的に2両が11本の陣容となり、2編成を繋いだ4両の半固定編成となった1800形は、最大で8両編成を組んで使用されました。切妻の前面を持つ大きな車体が8両も繋がる姿は、平日の朝にしか見られない貴重なものとなります。
1800形が8両編成で走るようになる以前には、4000形と1800形を繋いだ姿が見られました。
この併結運転は1969年から始まったものですが、1973年に連続して2回の脱線事故が発生したことから、4000形と組んでの運用は急遽中止となり、以降は1800形だけで8両編成を組むこととなります。
8両編成は朝のラッシュ時に2本が運行され、上りの急行列車からスタートしました。
1本目は江ノ島線から4両で急行として走り、相模大野駅で小田原駅発の急行と併合します。
2本目はどちらも小田原線の列車で、小田原駅を4両で先発した各駅停車の本厚木行きに対して、同駅で後続の急行を併合するものでした。

写真提供:小田急指令掛川様
新宿駅に到着した各列車は、どちらも準急として8両編成のまま折り返し、それぞれ本厚木行きと相模大野行きとなります。
本厚木行きは相模大野駅で分割が行われ、後ろの4両は各駅停車本厚木行きとなって後を追いかけました。
朝の名物列車であった1800形の8両編成は、1977年のダイヤ改正で姿を消すこととなります。
このダイヤ改正では急行の10両化が行われており、4両で半固定編成化されていたこともあってか、役割を終えることになったようです。
1800形を優等列車に投入した背景
10両固定編成が走る現代から見れば、2両を4本も繋いで走った1800形の8両編成は、やや異質な存在に見えるかもしれません。当時でさえ、2600形や9000形の6両編成は既に存在しており、そんな中でも1800形の8両編成が運行されていたことになります。
このような状況下において、1800形を沢山繋いで優等列車を仕立てていたわけですが、それには合理的な理由がありました。
1800形は大型車体という長所がある反面、加速が悪いという短所も抱えており、それらを総合的に解決できるのが8両編成の優等列車だったのです。
説明するまでもなく、20m級の車体である1800形は詰め込みが可能です。
当時は2400形等の中型車も多く在籍しており、1800形という存在をラッシュ時に活用しない手はありませんでした。
車体は大きいものの、吊り掛け駆動で重い1800形は加速が悪く、その点ではラッシュ時に向かない要素も持ち合わせていました。
そこで、過密運転となる区間では優等列車とすることで、加速が必要な機会自体を減らし、長所を活かしつつ短所を補うこととしたのです。
少数のバリエーションに富んだ車両が在籍した当時は、それらを最大限活用しなければいけない状況下でもあり、そんな時代背景がこのような面白い列車を生んだともいえるでしょう。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
おわりに
同様に吊り掛け駆動車だった4000形も、1800形と同じような使われ方をしたといえます。後年には5両を2本繋いだ10両編成が見られたのも、1800形と同じ理由だったことになりますね。


コメント
コメント一覧 (21)
小生高校時代、下校の際1800型が新宿駅で停車していると、1800型が後発にもかかわらず暖房の良く効いた座席に座り、ついウトウトとしてしまい、下車駅の経堂を乗り過ごして成城学園前迄良く乗り過ごす事が度々ありました。
ワタシダ
が
しました
この急行ができる前は、ご存じの通り4000*3+4000*3+1800、の8両の急行が何本か続いてありました。
準急は5000か9000の4+4両、向ヶ丘遊園→新宿の各停が2600の6両でした
競合脱線事故の後は、1800の連結中止で朝の急行が4000*3+4000*3の6両に短期間ではありますが急遽減車、
なるべく準急を利用くださいというアナウンスが頻繁に流れていました
そのうち、1800の8両急行が2本、TCを外した4000の臨時5両+3両が何本か続く状態になりました
朝の上り1800の8両は乗車もしてはっきり記憶にありますが、下りが全く覚えていないです
旧の劣化したフィルムを見ていたら、少なくとも1本は準急本厚木行のようでした
ワタシダ
が
しました
各駅停車の運用に入りいます。
ワタシダ
が
しました
4000形3×2と1800形2の混結編成による、レールから車輌が外れる、
脱線事故で車型を別々して、1800形の8両が誕生しました。
ワタシダ
が
しました
末期近くの1800は、朝方8連2本に組んで上りの急行に使い、残った4輌で経堂始発の下り各停に使い、2輌(1811-1861)が予備車という運用でした。日中はもっぱら各停運用でしたので、低加速車ではありましたが、それなりに使えたのでしょう。主電動機出力は、その後登場した8000よりわずかながら強力でしたし(5000は電圧375V時には149kwなので1800より強力)。
南武線の72系と車体も主電動機も同じのようなものでしたが、明らかに1800のほうが加速は良かったですよ。
ワタシダ
が
しました
事態を重く見た南海電鉄ではパイオニア台車と他種台車の併結を内規で禁止にしました。そのため6100系と6000(冷房化後)・6300系とは併結できず、運用の制約から現場の負担がデカかったようです。
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
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一長一短ある個性的な面々を、適材適所でやりくりし営業分割まであった当時の運用は面白い。分割併合は、需要に対応した柔軟なやり方だったのですね。
ワタシダ
が
しました
そんな1800形が小田急に残した功績は正に偉大なもので、2100形までの旧性能中型車が早期引退に追い込まれた中で1981年まで活躍し、一部が秩父鉄道に譲渡されつつ長生きしたのもこれまた感慨深いものですね。
ワタシダ
が
しました