多摩ニュータウンへのアクセス路線として、新百合ヶ丘駅から唐木田駅までの10.6kmを結んでいる多摩線。
小田急では最も新しく、距離も比較的短い路線ですが、近年は小田原線との直通列車が多く走るようになりました。
1990年に唐木田駅までの延伸が行われ、現在の路線形態が完成した多摩線ですが、それ以前はどのような路線だったのでしょうか。
京王と並行する多摩ニュータウン内において、区別が付くようにそれぞれが社名を冠した駅名としましたが、案内等では専ら「多摩センター」とされていたように思います。

写真提供:小田急指令掛川様
車両の方向幕も、社名の表記が省略された多摩センターとされ、基本的には新百合ヶ丘との折り返し幕が使われました。
当時の多摩線は線内の折り返し運用を基本としており、朝のラッシュ時に数本の小田原線直通列車があるほかは、全てが新百合ヶ丘駅と小田急多摩センター駅間の往復運用でした。
現代においては、新しい車両も区別なく走るようになりましたが、線内折り返しを基本としていた多摩線は、古い車両ばかりが集まる路線という時代が長く続きます。
線内折り返し運用が基本で、古い車両ばかりが集まっているという事情が、折り返し幕の使用にも繋がったと考えられ、頻繁に発生する手回しを避ける目的があったのでしょう。
現代においても、小田原線や江ノ島線に比べれば利用者が少ない多摩線ですが、唐木田駅まで延伸する前は2両や4両で足りる利用状況でした。
それでも列車の間隔は15分を基本としていたことから、沿線を発展させるための先行投資として、最低限の本数は常に確保されていたことになります。
小田急多摩センター駅でさえ、周辺に多くの空き地が目立っていたほどで、ダイヤの関係で京王に利用者が流れる状況において、小田急が空いているのは必然だったといえます。
起点である新百合ヶ丘駅周辺から、黒川駅までは閑散とした沿線風景が広がっており、戸建てを中心とした建設は進みつつあったものの、沿線には多くの空き地がありました。
マンションのような大型建築はほとんどなく、駅の近くに広い空き地があるというのが、延伸開業前のイメージだったように思います。
線内に車庫がなかったという点も、現代の多摩線とは大きく異なる点でした。
小田急永山駅と小田急多摩センター駅以外は、ホームが10両編成の停車に対応しておらず、これも線内折り返しを基本とすることに繋がります。
現代のように入庫を兼ねての運用がないため、独立した折り返し列車の運用が基本となるのは、必然でもあったのです。
臨時列車の運行等を除けば、ロマンスカーや長編成の列車が走ることはなく、短くて古い車両がひたすら往復している、それが多摩線の長く続く姿でした。
冷房を搭載した車両が走る機会も限られ、各駅停車しか運用されない路線ではありましたが、そんな発展途上だった時代にも味があり、懐かしく思い出してしまいました。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
一方で、編成は多くが10両となり、小田原線にも直通運転していることから、全体で見た場合の利便性は大きく向上したことになりますね。
小田急では最も新しく、距離も比較的短い路線ですが、近年は小田原線との直通列車が多く走るようになりました。
1990年に唐木田駅までの延伸が行われ、現在の路線形態が完成した多摩線ですが、それ以前はどのような路線だったのでしょうか。
小田急多摩センター駅が終点だった多摩線
平成という時代が始まってすぐの頃まで、多摩線の終点は小田急多摩センター駅でした。京王と並行する多摩ニュータウン内において、区別が付くようにそれぞれが社名を冠した駅名としましたが、案内等では専ら「多摩センター」とされていたように思います。

写真提供:小田急指令掛川様
車両の方向幕も、社名の表記が省略された多摩センターとされ、基本的には新百合ヶ丘との折り返し幕が使われました。
当時の多摩線は線内の折り返し運用を基本としており、朝のラッシュ時に数本の小田原線直通列車があるほかは、全てが新百合ヶ丘駅と小田急多摩センター駅間の往復運用でした。
現代においては、新しい車両も区別なく走るようになりましたが、線内折り返しを基本としていた多摩線は、古い車両ばかりが集まる路線という時代が長く続きます。
線内折り返し運用が基本で、古い車両ばかりが集まっているという事情が、折り返し幕の使用にも繋がったと考えられ、頻繁に発生する手回しを避ける目的があったのでしょう。
現代においても、小田原線や江ノ島線に比べれば利用者が少ない多摩線ですが、唐木田駅まで延伸する前は2両や4両で足りる利用状況でした。
それでも列車の間隔は15分を基本としていたことから、沿線を発展させるための先行投資として、最低限の本数は常に確保されていたことになります。
空き地が目立っていた多摩線の沿線
多摩ニュータウン内においては、当時も沿線の発展が進んでいた多摩線ですが、それ以外においては空き地が目立つ状況でした。小田急多摩センター駅でさえ、周辺に多くの空き地が目立っていたほどで、ダイヤの関係で京王に利用者が流れる状況において、小田急が空いているのは必然だったといえます。
起点である新百合ヶ丘駅周辺から、黒川駅までは閑散とした沿線風景が広がっており、戸建てを中心とした建設は進みつつあったものの、沿線には多くの空き地がありました。
マンションのような大型建築はほとんどなく、駅の近くに広い空き地があるというのが、延伸開業前のイメージだったように思います。
線内に車庫がなかったという点も、現代の多摩線とは大きく異なる点でした。
小田急永山駅と小田急多摩センター駅以外は、ホームが10両編成の停車に対応しておらず、これも線内折り返しを基本とすることに繋がります。
現代のように入庫を兼ねての運用がないため、独立した折り返し列車の運用が基本となるのは、必然でもあったのです。
臨時列車の運行等を除けば、ロマンスカーや長編成の列車が走ることはなく、短くて古い車両がひたすら往復している、それが多摩線の長く続く姿でした。
冷房を搭載した車両が走る機会も限られ、各駅停車しか運用されない路線ではありましたが、そんな発展途上だった時代にも味があり、懐かしく思い出してしまいました。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
おわりに
優等列車を増やした時期を経て、多摩線は再び通過運転をほとんどしない路線に戻りました。一方で、編成は多くが10両となり、小田原線にも直通運転していることから、全体で見た場合の利便性は大きく向上したことになりますね。


コメント
コメント一覧 (18)
高校に通学していました。
当時は2両または4両の非冷暖房車両で
五月台と黒川は無人駅でした。
しかし15分間隔で運転はしてましたね。
あの多摩線に快速急行が走り
栗平が停車駅になるなんて当時からは
想像つかないです。
新百合ヶ丘駅前も閑散としてました。
ワタシダ
が
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京王線の京王多摩センターの隣駅が「堀之内」ではなく「京王堀之内」なのは、
当初の計画だと小田急は京王とは多摩センターからの分離ではなく堀之内からの予定だったので、
京王側がそれを見越して堀之内に「京王」と冠を付けたそうです。(諸説あり)
もしも計画通り堀之内から分離していたら、唐木田や上溝への延伸はどうなっていたでしょうね?
ワタシダ
が
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当時は今と違って情報も限られていましたので、ヤキモキしながら新しい情報を待ったり探したりでした。
ワタシダ
が
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また世田谷・狛江の複々線化の立ち退き住民のなかの希望者への代替地あっせんを優先した時期もあったようです。
開業から10年くらいして8000の増備でHE車を代替して、HE車のモーターは4000の新性能化に転用するころ、多摩線も大型4両が主流だった時期もあったような、しかも8000が多かったような記憶があるのですが、正しいでしょうか?
21世紀になってからですが、「新百合周辺」のうち、栗平に数年住みました。そのころは今の白鳥4丁目あたりが造成中でしたね。
ワタシダ
が
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ワタシダ
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唐木田まで延伸直前に、冷房100%になってから当たり前になりましたね。
ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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今でも人のまばらなホームに鳴り響く列車接近音トゥルルルーが耳に残ってる。
ワタシダ
が
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多摩線唐木田延伸の2年前に京王は相模原線を南大沢まで、そして唐木田開業から1週間後に橋本まで延伸し、現在の形を成したことになります。
車両面でも1600形や2200形といった旧性能車や中型車が行き来するイメージがあり、これらが引退までの晩年を過ごす傾向があり、最近でも8000形界磁チョッパ制御車や1000形ワイドドア車が行き来しとりましたが、現在では最古参の8000形から最新の5000形まで、そして東京メトロやJRからの乗り入れ車両と新旧様々な車両が見られるようになりました。こうした面でも多摩線は相模原線に負けじとニュータウン路線として更なる成長を年々遂げとることが改めて窺えますね。
ワタシダ
が
しました
ワタシダ
が
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