昭和の終わり頃における小田急を語るうえで、外すことができない存在といえる2400形とABFM車。
前者は経済性を重視した4両固定編成の車両、後者は2両編成の4形式を総称したものですが、基本的には別々の運用が組まれていました。

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写真提供:小田急指令掛川

晩年はABFM車だけで6両を組むのが日常でしたが、一時的に2400形と組んだ6両が運用されています。
常にこうしておけばよかったようにも思いますが、なぜそうしなかったのでしょうか。

別運用とされていた2400形とABFM車

1970年代の後半頃でしょうか、2200形を筆頭にしたABFM車は晩年といえる時期に入りました。
全ての編成が2両となっていましたが、この時期にはABFM車だけで編成を組むようになり、ほぼ6両として扱われるようになります。



2200形以外の各形式は、元々4両編成で登場していますが、後に様々な経緯を経て2両化が行われています。
2400形の増備が進む中で、2200形は増結編成としての色が濃くなっていきますが、その不足を補う面がありました。

そのような経緯がありながらも、運用上の併結以外で組むことはなくなっていき、最終的には別々に組まれるようになります。
前述のとおり、ABFM車は2編成を除いて6両を組むことが基本となったため、先頭車ばかりが中間に入っていました。

1982年からABFM車の廃車が始まると、11月に例外的な動きが発生し、2400形とABFM車を繋いだ6両編成が見られるようになります。
これは2200形を多摩線に集約する動きと連動しており、例外的な6両は4本組まれました。
しかし、暫定的な対応だったようで、比較的短期間で再びABFM車だけで組まれるように変更されています。

なぜ両形式は別々に運用されたのか

当初は2400形の増結という用途があったABFM車は、なぜ別々の運用になっていったのでしょうか。
中間が先頭車ばかりになるよりは、上手く2400形とABFM車を組み合わせればよさそうに思いますが、その対応はされませんでした。
晩年に組成されながらも、短期間で解消したという事実を踏まえると、意図的に避けていた可能性もありそうです。

大前提として、6両を組む必要がそこまでなかったという事情はあると思っています。
10両の急行が走るようになったのは1977年ですが、それ以前は優等列車の最大両数が8両であり、急行は4両同士を繋ぐことが基本でした。
各駅停車等には2600形が使われており、4両も普通という時代であれば、2400形とABFM車を組み合わせて、あえて6両とする意味はなかったのかもしれません。

仮に2400形とABFM車を組み合わせて6両とした場合、別の問題が生じた面もありそうです。
余ったABFM車は結局4両なり6両を組みますが、2400形の編成数が減る分、前者を多数組む必要が生じます。
これが箱根登山線への乗り入れに絡んでくると、扱いにくい存在となってしまうのです。

どういうことかというと、箱根登山線にはドアカットがあるため、中間に先頭車が入る組成は都合がよくありません。
ABFM車はドアも片開きであり、手で扱うのは重さの面でもデメリットがありそうです。

晩年にABFM車だけで6両を組んだのは、箱根登山線に入れなくてよいという点でも、運用上のメリットがあったのでしょう。
1982年以降には、ABFM車を含んだ中型車の6両についても、箱根登山線への乗り入れが行われていますが、廃車までの限定的な対応でした。



写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。

おわりに

結局のところ、ABFM車だけでまとめておいたほうが、色々と都合がよかったのだと思います。
電動車の比率という面では、2400形とABFM車を組み合わせたほうが安定しそうですが、他のデメリットが多かったのでしょうね。