小田急と相鉄のホームが並び、数多くの電車が行き交う海老名駅。
相鉄が他社と相互乗り入れを行うようになったため、小田急と共演する車両はバラエティー豊かになりました。

ホームが間近にありながら、小田急と相鉄は乗り入れを行っていませんが、1964年までは実績がありました。
今も要望がある状況ですが、相鉄から小田急への乗り入れは、どのように始まって終わったのでしょうか。
中心地である相模厚木(現在の本厚木)駅への乗り入れは悲願であり、利用者にとっても歓迎される動きだったことでしょう。
相鉄の前身である神中鉄道は、相模川を渡ることができずに厚木駅までの路線となりました。
少しして小田急の小田原線が開業し、相模厚木駅へのアクセスは向上しましたが、近くて遠い駅であることには変わりありません。
事態が動いたのは、1939年に五島慶太が社長に就任した際で、小田急への乗り入れ構想が具体化していくこととなります。
乗り入れにあたっては、新線を建設してルートを変更のうえ、小田急との接続部分に海老名駅が新たに設けられました。
こうして1941年12月25日より、相鉄から小田急への片乗り入れが始まり、相模厚木駅までガソリンカーが1日に4本入線することとなります。
念願の乗り入れは始まったものの、直前には太平洋戦争が勃発し、継続には早々に暗雲が漂いました。
乗り入れが開始された当初、海老名駅の小田急側にはホームがありませんでしたが、後に設置のうえで乗り換えが可能となります。
燃料不足等もあり、1943年3月31日をもって、残念ながら乗り入れは中止となってしまいました。
戦前はガソリンカーによる乗り入れでしたが、電化されていた戦後は電車で行われることとなります。
乗り入れの再開は1945年12月25日のことで、奇しくも戦前の開始時と同じ日付です。
朝夕に2本ずつが設定され、二俣川駅から本厚木駅までの列車が設定されました。
相鉄側が二俣川駅までとなったのは、線内で電圧が異なっていたことによるもので、1,500Vの区間のみでの実施となったためです。
相鉄線内の全てが1,500Vとなったことに合わせ、1946年12月26日には横浜駅から本厚木駅間での直通運転が始まりました。
本数は1日に13往復でスタートしましたが、後に少し増発されて17往復程度となり、朝夕のラッシュ時に運行されることとなります。
ラッシュ時のみの乗り入れとはいえ、それなりの需要があったことが、本数からも分かります。
こうして活発に行われるようになった乗り入れですが、1959年からは本数の減少へと転じ、1964年11月4日をもって廃止されてしまいました。
理由は小田急側に受け入れるだけの余裕がなくなってしまったためで、沿線人口の急増していた時期とも重なります。
現代の姿を見ると、頑張れば入れられなくもないように見えてしまいますが、当時は本厚木駅に引き上げ線がなく、電車は本線上で折り返していました。
海老名駅も平面交差であり、乗り入れが困難となったのは間違いないといえそうです。
設備の限界という消極的な理由で廃止されたことを踏まえれば、そのような要望が続くのも無理はないのかもしれませんね。
相鉄が他社と相互乗り入れを行うようになったため、小田急と共演する車両はバラエティー豊かになりました。

ホームが間近にありながら、小田急と相鉄は乗り入れを行っていませんが、1964年までは実績がありました。
今も要望がある状況ですが、相鉄から小田急への乗り入れは、どのように始まって終わったのでしょうか。
戦前に始まった相鉄からの乗り入れ
相鉄から小田急への乗り入れは、1941年12月25日に始まりました。中心地である相模厚木(現在の本厚木)駅への乗り入れは悲願であり、利用者にとっても歓迎される動きだったことでしょう。
相鉄の前身である神中鉄道は、相模川を渡ることができずに厚木駅までの路線となりました。
少しして小田急の小田原線が開業し、相模厚木駅へのアクセスは向上しましたが、近くて遠い駅であることには変わりありません。
事態が動いたのは、1939年に五島慶太が社長に就任した際で、小田急への乗り入れ構想が具体化していくこととなります。
乗り入れにあたっては、新線を建設してルートを変更のうえ、小田急との接続部分に海老名駅が新たに設けられました。
こうして1941年12月25日より、相鉄から小田急への片乗り入れが始まり、相模厚木駅までガソリンカーが1日に4本入線することとなります。
念願の乗り入れは始まったものの、直前には太平洋戦争が勃発し、継続には早々に暗雲が漂いました。
乗り入れが開始された当初、海老名駅の小田急側にはホームがありませんでしたが、後に設置のうえで乗り換えが可能となります。
燃料不足等もあり、1943年3月31日をもって、残念ながら乗り入れは中止となってしまいました。
戦後に活性化した乗り入れと終焉の背景
戦争の影響により中止となった乗り入れは、戦後になって再開されることとなりました。戦前はガソリンカーによる乗り入れでしたが、電化されていた戦後は電車で行われることとなります。
乗り入れの再開は1945年12月25日のことで、奇しくも戦前の開始時と同じ日付です。
朝夕に2本ずつが設定され、二俣川駅から本厚木駅までの列車が設定されました。
相鉄側が二俣川駅までとなったのは、線内で電圧が異なっていたことによるもので、1,500Vの区間のみでの実施となったためです。
相鉄線内の全てが1,500Vとなったことに合わせ、1946年12月26日には横浜駅から本厚木駅間での直通運転が始まりました。
本数は1日に13往復でスタートしましたが、後に少し増発されて17往復程度となり、朝夕のラッシュ時に運行されることとなります。
ラッシュ時のみの乗り入れとはいえ、それなりの需要があったことが、本数からも分かります。
こうして活発に行われるようになった乗り入れですが、1959年からは本数の減少へと転じ、1964年11月4日をもって廃止されてしまいました。
理由は小田急側に受け入れるだけの余裕がなくなってしまったためで、沿線人口の急増していた時期とも重なります。
現代の姿を見ると、頑張れば入れられなくもないように見えてしまいますが、当時は本厚木駅に引き上げ線がなく、電車は本線上で折り返していました。
海老名駅も平面交差であり、乗り入れが困難となったのは間違いないといえそうです。
おわりに
現代においても、相鉄の小田急への乗り入れは要望が続いています。設備の限界という消極的な理由で廃止されたことを踏まえれば、そのような要望が続くのも無理はないのかもしれませんね。


コメント
コメント一覧 (23)
ワタシダ
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相鉄の負担で伊勢原または伊勢原新駅まで複々線化してくれたら小田急も反対しないと思いますが。
ワタシダ
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東急の鉄道網に接続されると遅延が波及する
ワタシダ
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注目するのはその運転経路で、基本的に新宿-海老名国分?-横浜と、小田急車が横浜まで走っていたわけです。
もっとも区間運転があったようだとか、大東急の分離後も時期的に運転されたはずだが、正確にいつまでか等は詳細に調べてないのでここで明記は出来ませんが…。
海老名の車庫が伊勢原に移転するわけなので、相鉄車を伊勢原折返しでの設定は出来そうにも思います(海老名の留置線を少し整理するなどして)が、線路改築の範囲が広くなりそうなのと、小田急としては間接的に乗客の流出につながると考えるでしょうから、積極的にやろうとは思わないでしょうねぇ…。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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両社の本線どうしはある程度の距離を並行していますし、非営業の厚木線は既に小田急を立体で乗り越えています。
ですから海老名の構造を理由に乗り入れ困難とするのは、私には(小田急側の)やりたくない言い訳のように思えます。
ワタシダ
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ワタシダ
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むしろ相鉄は東京メトロの方は良いとしてJRの方は乗り入れ先を東京駅方面にして欲しいのが本音みたいです。
小田急は東京・丸の内(大手町)への乗り入れを果たしているのに対し、相鉄は渋谷・新宿副都心方面に偏重していますし…
ワタシダ
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相鉄車が、JRの横浜駅で見られる事が有るみたいに。
ワタシダ
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ちなみに相鉄には厚木線という非営業線があり、かしわ台付近から分岐して海老名の北側を迂回する形で相模線厚木付近に乗り入れとります。そこでこれを利用して相模線に乗り入れるというのも考えものですが如何でしょうかね?
ワタシダ
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ワタシダ
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