かつては横浜線が原町田駅、小田急が新原町田駅として開業し、1980年の改称で統一された町田駅。
昔は今以上に駅が離れており、その距離は500mほどありました。

写真提供:小田急指令掛川様
様々な経緯で離れることになった町田駅ですが、なぜ国鉄の駅が移転することになったのか、その経緯を振り返ってみたいと思います。
開業当時の駅名は原町田で、駅周辺の地名が駅名として採用されたものです。
横浜線は元々横浜鉄道という私鉄が開業し、1917年の国有化を経て現在はJR東日本の路線となりました。
原町田駅ができたことで、周辺には商店が並ぶようになり、移転前の場所が栄えているのは当時の名残といえます。
時は流れ、小田急が開業に向けて進んでいくこととなりましたが、こちらも当初は原町田駅があった付近を通る予定でした。
地図を見ると、玉川学園前駅を出て800mほど進んだ場所から、線路は右へとカーブしていきますが、そこから直線で進むと、かつての原町田駅付近に至ることが分かります。
ルートが変更された背景には地元の反対があったようで、鉄道の交差により街が分断されかねないというのが理由でした。
調べていくと、他の理由も複合的に関係していそうな印象はありますが、こうして小田急の駅は中心地から離れた場所に設置され、駅名は新原町田とされることとなります。
元々は場末だった小田急の駅は、新宿駅に直結しているというメリットがあり、鉄道の利用者が流れていくのは自然なことでした。
地元としては誤算だったと思いますが、当時の横浜線は単線であり、電車が走り始めたのも1932年のことで、都心部へのアクセスがよい小田急に少しずつ人が流れるのは必然だったのでしょう。
利用者が移っていくことで、年月の経過とともに町田の中心地は小田急の駅側へと移っていきました。
結果的に駅の優位性が逆転してしまい、横浜線の駅には移転の要望が出るようになりますが、ここでも地元の反対という壁が立ちはだかります。
長い乗り換えの導線は、結果的に繁盛する商店街を形成することに繋がり、駅の移転が死活問題になる方もいる状況でした。
妥協案として、横浜線の駅が小田急側に近付くことで着地しましたが、ペデストリアンデッキで両線の駅が結ばれたため、結局乗り換えの導線自体は変化しています。
こういった事例は他にも数多くあるようですが、不便な状況は最終的に利用者の離反へと繋がり、後からダメージを受けるケースが多いように思いました。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
乗り換えには今も距離がありますが、昔に比べればはるかにましというところでしょうか。
昔は今以上に駅が離れており、その距離は500mほどありました。

写真提供:小田急指令掛川様
様々な経緯で離れることになった町田駅ですが、なぜ国鉄の駅が移転することになったのか、その経緯を振り返ってみたいと思います。
地元の反対で離れた小田急の駅
小田急が開業する18年半ほど前に、横浜線の町田駅が産声をあげました。開業当時の駅名は原町田で、駅周辺の地名が駅名として採用されたものです。
横浜線は元々横浜鉄道という私鉄が開業し、1917年の国有化を経て現在はJR東日本の路線となりました。
原町田駅ができたことで、周辺には商店が並ぶようになり、移転前の場所が栄えているのは当時の名残といえます。
時は流れ、小田急が開業に向けて進んでいくこととなりましたが、こちらも当初は原町田駅があった付近を通る予定でした。
地図を見ると、玉川学園前駅を出て800mほど進んだ場所から、線路は右へとカーブしていきますが、そこから直線で進むと、かつての原町田駅付近に至ることが分かります。
ルートが変更された背景には地元の反対があったようで、鉄道の交差により街が分断されかねないというのが理由でした。
調べていくと、他の理由も複合的に関係していそうな印象はありますが、こうして小田急の駅は中心地から離れた場所に設置され、駅名は新原町田とされることとなります。
小田急に流れていった利用者
500mほど離れることになった両線の駅ですが、時間の経過によって人の流れに変化が生じ始めました。元々は場末だった小田急の駅は、新宿駅に直結しているというメリットがあり、鉄道の利用者が流れていくのは自然なことでした。
地元としては誤算だったと思いますが、当時の横浜線は単線であり、電車が走り始めたのも1932年のことで、都心部へのアクセスがよい小田急に少しずつ人が流れるのは必然だったのでしょう。
利用者が移っていくことで、年月の経過とともに町田の中心地は小田急の駅側へと移っていきました。
結果的に駅の優位性が逆転してしまい、横浜線の駅には移転の要望が出るようになりますが、ここでも地元の反対という壁が立ちはだかります。
長い乗り換えの導線は、結果的に繁盛する商店街を形成することに繋がり、駅の移転が死活問題になる方もいる状況でした。
妥協案として、横浜線の駅が小田急側に近付くことで着地しましたが、ペデストリアンデッキで両線の駅が結ばれたため、結局乗り換えの導線自体は変化しています。
こういった事例は他にも数多くあるようですが、不便な状況は最終的に利用者の離反へと繋がり、後からダメージを受けるケースが多いように思いました。
写真を提供いただいた小田急指令掛川様は、数々の貴重な映像も撮影されています。
YouTubeにて公開中ですので、よろしければそちらもご覧下さい。
おわりに
後発の駅に中心地が変化し、最終的に横浜線の駅が移転することとなった町田駅。乗り換えには今も距離がありますが、昔に比べればはるかにましというところでしょうか。


コメント
コメント一覧 (27)
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
が
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直結したら新たな「点」を作り出すだけですし、今まで外に出てきていた乗り換え客を駅構内へ閉じ込めることになってしまいます。それで旧国鉄駅は移転させるも直結させず、両口大駅化されたんです。
小田急駅ではなく旧国鉄駅の移転であれば、駅だけをスライドさせれば済むという条件の優位性は大きかったと思います。
その代わり当時の大下市長は、移転後の旧駅周辺の斜陽化対策にはかなり砕心したようです。旧駅跡地に建った「まちだターミナルプラザ」はそれを具現化させた計画の一つです。
駅名改称に関して旧国鉄は大分県に既に「町田駅」があるからと一度拒否するも、町田市の担当職員が「大阪にも福島にも福島駅があるだろ、ウチの市長はその大阪の福島の出身だからカンカンに怒ってるぞ」と旧国鉄を薙ぎ倒して改称させたんです。ただし切符等はその大分の宮原線が廃線になるまで「(横)町田」という表記でした。
ワタシダ
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確かに、仮に直結していた場合、町田で降りる客と乗り換え客が錯綜し、現実より危険な状態になっていたかもしれません。
ワタシダ
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逆に小田急の駅を横浜線側に移動しようとすると線路ごと大移動が必要で実質的に無理です。
横浜線の方は移転に合わせて田園都市線乗り入れに対応するため2面4線に拡張しているので、その兼ね合いもありそうです。
ワタシダ
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昭和40年代前半の原町田駅周辺の横浜線は単線で、茶色の国電が吊り掛けモーターの轟音も勇ましく、時には蒸気機関車が牽引する貨物列車を見ることが出来ました。
ワタシダ
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しかし近年はオーバーストアによる空き店舗問題が目立ちますが、交通拠点なことから南町田駅前より遠い将来まで栄えるでしょう。
多摩モノレール延伸計画もありますし。しかし多摩モノレール、東京都が大株主な第3セクターのため、町田延伸となると、相模原市に近すぎるのがネックになりそうな...?
ワタシダ
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ワタシダ
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元々小田急側に「町田バスセンター」があり、国鉄側原町田駅のバス停は小さく扱う路線も少なかったのだけど、移転に合わせて原町田駅の側にもうひとつバスターミナルを作って「町田ターミナル」とする事で原町田駅側の街の賑わいを保とうとしましたね。
ワタシダ
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小田急の利用者が爆発的に増え始めたのは高度経済成長期に突入して、町田の郊外に団地や宅地が乱開発されて東京のベッドタウン化が進んだ1950年代後半から。とはいえ今でも一日平均乗降だと小田急2万5千人でJR2万人なので、JRと京王で3倍近い差がある八王子と比べると両者そんなに差はなかったりします。
ワタシダ
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また駅名の改称についても大分県の同名駅との重複で混同が懸念されましたが、当時の町田市長が国鉄側を説得して改称にこぎつけたのも有名な話ですね。現在では大分県の町田は路線そのものとともに廃止されましたが、分割民営化後の現在では同じ駅名がJR管内で各地に混在するケース(福島、橋本、白石など)は決して珍しいことではないので、当時の国鉄が如何に駅名の改称に慎重であったかが分かりますね。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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