現在も駅名に残りながら、実現することはなかった小田急の林間都市構想。
計画都市を開発しようという壮大なものでしたが、昭和初期の不景気に加え、戦時体制へと移行していく中で頓挫してしまいました。

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そのような状況下でも、小田急は居住者を増やそうと努力を続けましたが、どのような販売促進策を行ったのでしょうか。

実現しなかった林間都市構想

相模大野駅から分岐して江ノ島線に入ると、「林間」と入る3駅が連続して並んでいます。
不思議な駅名に見えますが、これは開業時に構想されていた計画都市の名残で、元々は末尾に「都市」と入る駅名でした。



林間都市構想自体はかなり壮大なもので、ただの住宅地ではありません。
鉄道路線である以上、住宅地であることは当然ですが、スポーツ施設を中核としたものになっており、様々な施設を設置する計画となっていました。



現代であれば、先進的な都市として人気が出そうな計画ですが、時代を先取りしすぎたのかもしれません。
小田急が開業した当時において、林間都市が計画された場所は都心から遠すぎ、昭和初期の不景気にも見舞われます。
そうこうしているうちに世は戦争の時代へと突入し、林間都市構想どころではなくなってしまいました。

小田急が行った販売促進策

販売不振に苦しむことになった小田急ですが、何もせずに見ていたわけではありません。
今そのような特典があれば、かなり魅力的にも思えるような販売促進策を行い、住宅が売れるよう企業努力をしていました。

その内容は、土地を購入した人には3年間の無料パスを、家を建てた場合には6年間の無料パスを発行するというものでした。
現代の感覚では信じられないような、破格の購入特典といったところでしょうか。

特典はこれだけではなく、契約者と家族には運賃面での優遇もありました。
それは新宿駅から林間都市までの運賃を安くする優遇施策で、新宿駅から成城学園前駅までの金額で乗れるというものです。
さらに、無期限での優遇だったということですから、なかなか思いきった施策ということになります。

これだけやれば、人口は増えたのではないかと思わされますが、結果は1935年時点で中央林間都市の戸数が50戸、人口は230名といったものだったそうです。
開業から6年でこの結果だったことになりますが、小田急の思いとは裏腹に、構想があったエリアは戦後に目覚ましい発展をしていくこととなりました。

おわりに

壮大な構想を描き、販売促進策を行いつつも頓挫してしまった林間都市構想。
東急が田園都市線を開業させたことにより、渋谷方面にも直結する地域となったことで、現在はとても利便性が高い地域となりました。